多分、大概の所でも同じだと思うが、私の住む街には、防災無線と呼ばれる広報装置の鉄塔があちこちに立っている。市役所が管理していて、市民に緊急の連絡がある時、それを通じて知らせるのである。
この街は海沿いでもあり、地震や津波情報、避難命令などが主な目的とされているのだろう。とは言うものの、普段は午後四時半頃に「夕焼け小焼け」のメロディーが流れ、良い子に帰宅を促す程度の使われ方である。
そんな防災無線であるが、気象情報、地震情報の間をぬって時たま聴かれるのが「行方不明者のお知らせ」。それも家出した中学生を探すのではなく、認知症を患っていると思われるお年寄りに関するお知らせである。ほとんど夕方、薄暗くなりかけてから放送される。
曰く、今朝早くからどこどこに住むxx歳の女性/男性が行方不明になっていると前置きし、身長や風貌、服装などについて簡単な説明があり、心当たりの人は最寄りの警察署に連絡して欲しいと続く。名前や詳しい住所は知らされず、あれで本人確認出来るのかねと心配してしまう。
私の街の防災無線は放送内容をツイッターに流していて、それを見るとこの9月からの約4ヶ月の間、210件ほどの放送(そのほとんどが気象警報や地震の通知)
があり、そのうち行方不明老人についての放送は12件である。全てがツイッターに投稿されているとは限らないが、月に3回は老人が行方不明になっている勘定である。
基本的には数時間後、そうでなくても翌日には発見されたとアナウンスされ、めでたしめでたしとなることが多い。しかしこの時の言い方に微妙な差があり、それが実際の転帰を暗に示しているのだ、と言うのが主婦たちに噂されていると複数の女性職員が教えてくれた。
というのが「無事に保護されました」と言われる場合と、「発見されました」とさらりと言うだけの場合があり、後者は「行方不明者は死んでいた」という意味なのだと。しかし、徘徊のあげく交通事故にあったり、海や川に落ちて溺死というのは聞く話ではあるがそんなに多いことなんだろうか。
警察庁が昨年秋に認知症に関する省庁連絡会議用に作った資料(PDF)をみると、平成25年度に認知症関連で行方不明となり届け出られた人数は10322人。そのうち所在が確認されたのは10088人である。ただ、警察庁は388人の死亡者も所在確認にカウントしている。行方不明のままの人は151人おり、身元が不明のまま施設などで保護されている少数の人以外はまず死亡しているだろうから、5%強の人は死亡すると見てそれほどのズレはないような気がする。
けっこう大きな数字なのだが、それが起こる確率はそう高くなく、ましてやアナウンスで言い分ける程ではない。先ほどの防災ツイッターを見れば、保護の知らせはすべて「発見されました」である。ツイッターで文字化されたものと実際の放送が一緒である保証はないが、仮に表現が違う場合であっても、アナウンスする人のその時の気分以上の理由はなさそうである。
では何故こんな噂話が生まれるのだろう。これは実際に認知症老人介護を担っている人々(その殆どが主婦たち)、およびやがて来るかもしれない介護の日々を予感している人たちが、その苦痛からの解放希求を控えめに表現したファンタジーなのではないか、と言うのが私の独断的考察。
介護者を悩ます徘徊が、同時に根本的問題の消滅に繋がるかもしれないという、人には言えない期待が、防災無線アナウンスの微妙なニュアンスの違いとして表現されているかのように聞き取れてしまうのではないか。いささか不謹慎な意見ではあるものの、家族に介護を押し付けることをメインとするこの国の認知症対策ポリシーのもとでは、そう感じるのも致し方なかろうと思う。
2015年12月27日日曜日
2015年12月23日水曜日
バナナスタンド
駅前に前から気になっているキッチンウェアの店があり、一度入ってみようと思っていたのだが、何となく価格設定が高そうで入りそびれていた。田舎街とはいえ、駅前で鍋釜売るからにはそれなりの採算目論見もあるだろうし。
たまたまお好み焼き用のコテ(テコとも言うがどちらが正しいのかは知らない)が必要となり、いい機会とばかりに入ってみる。そして10分余の探索の末、ここには売っていないという結論。関東だから仕方ないのかなと思ったが、もんじゃ焼きのヘラもなかったので、粉モンには関わらぬという店主のポリシーなのかもしれない。
そこでサッサと帰ればいいのだが、一大決心で入ってきたからにはなにか買わないとイカンと言う気分になり、と言って何万もする和包丁などには手が出ない。そこで見つけたのがこの「バナナスタンド」。冷蔵庫に入れると痛みがかえって早いバナナの保存に役立ち、それ自体がオブジェにもなるという触れ込み。
オブジェになるかどうかは疑問ながら、たしかに横置きしていると底面から痛むバナナの保存には誠に適したものであるように思える。朝飯はバナナだけで済ますことが多い私には、バナナの合理的長期保存は重要問題である。値段も二割引き900円との事で、役に立たなくてもそうダメージはないだろうと購入。
実際に使ってみると…。やはり3日もすれば皮は黒ずみ、そうたいして長期保存を可能にしてくれるわけではない。確かに一部が先に真っ黒けという事態は少なくなるけれど。ええい、ここはバナナオブジェ機能だけでも享受しようと気持ちを切り替えるが、全体が黒ずんだバナナはそう鑑賞に耐えるものではない。アマゾンでは1200円ほどで売っていた、と言うのが唯一の救いかな。
たまたまお好み焼き用のコテ(テコとも言うがどちらが正しいのかは知らない)が必要となり、いい機会とばかりに入ってみる。そして10分余の探索の末、ここには売っていないという結論。関東だから仕方ないのかなと思ったが、もんじゃ焼きのヘラもなかったので、粉モンには関わらぬという店主のポリシーなのかもしれない。
そこでサッサと帰ればいいのだが、一大決心で入ってきたからにはなにか買わないとイカンと言う気分になり、と言って何万もする和包丁などには手が出ない。そこで見つけたのがこの「バナナスタンド」。冷蔵庫に入れると痛みがかえって早いバナナの保存に役立ち、それ自体がオブジェにもなるという触れ込み。
オブジェになるかどうかは疑問ながら、たしかに横置きしていると底面から痛むバナナの保存には誠に適したものであるように思える。朝飯はバナナだけで済ますことが多い私には、バナナの合理的長期保存は重要問題である。値段も二割引き900円との事で、役に立たなくてもそうダメージはないだろうと購入。
実際に使ってみると…。やはり3日もすれば皮は黒ずみ、そうたいして長期保存を可能にしてくれるわけではない。確かに一部が先に真っ黒けという事態は少なくなるけれど。ええい、ここはバナナオブジェ機能だけでも享受しようと気持ちを切り替えるが、全体が黒ずんだバナナはそう鑑賞に耐えるものではない。アマゾンでは1200円ほどで売っていた、と言うのが唯一の救いかな。
2015年12月17日木曜日
モナドの領域
何処で知ったのか忘れてしまったが、かの筒井康隆が新作長編を出し、それも著者自ら「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長篇」と宣言しているそうな。これは読まねばならぬとアマゾンで注文。ただ単行本を買うと1500円もするので、全文が掲載されている雑誌「新潮」を980円で購入。500円得した高揚感で一気に読了。
で、感想なのだがいささか微妙である。公園で発見された女の片腕、バラバラ殺人と思われる事件の捜査にあたる美男でインテリの警部、皮肉屋で饒舌なベテラン鑑識課員、彼らの初動捜査段階には合相応しくないマニアックな美学的会話から物語は始まる。
鑑識課員はこれが「極めて大きな何事かの濫觴」だという感想を述べるのだが、ここで何となく悪い予感。「濫觴」なんて言葉、日常で使うことあるか?ましてや殺人事件の捜査過程の雑談で。そもそもこの言葉、ランショウという音もきついし、漢字の印象もあまりに硬い。
濫は氾濫とか濫用とかの、みだりに過剰なという意味を先に連想してしまうし、觴に至っては何だか判らず、角が尖ったもので傷つけられるような不吉なイメージを持つばかり。両者からは溢れる禍々しさは受け取れても、小さな流れに盃を浮かべるといったほのぼのさは全く感じられないのだ。
そりゃお前の無知のせいだろと言われるだろうが、私にはこの言葉からは、ひけらかしとか、見掛け倒しといったメタなメッセージを受け取ってしまい、それが最後まで先入観として残ってしまった。では、つまらなかったのかと言うとそんなことはなく、十分楽しんで3時間余を過ごすことは出来た。ただその楽しさは、例えば水戸黄門がその権力を使って、非道な悪漢どもを懲らしめる爽快さのようなものである。
全知全能の存在が人間社会で絶対とされる正義や善という観念を軽々と手玉に取り、次々と繰り出される古今東西の知識人たちの該博というレベルを超えた引用で解説していく様は見事というしかない。結局最後は神をこえたその存在は、ある意味での叙述トリックなのだということが仄めかされるあたりで、ああまたこれかいな、と溜息をついて残りをそさくさと読み飛ばすことになるけれど。
私は以前から、筒井康隆の小説はとても面白いのに、彼が稀に書く芝居はさっぱり面白くないのは何故なんだろうと不思議に思っていた。この小説を読むと、何となくその理由がわかるような気がする。筒井の真似をしてわかりにくい表現をするなら、可能世界は言語によってそのすべてが記述されるわけではなく、言語で描かれる世界はモナドの領域の一部に過ぎないということだ。おまけにそのモナドには窓もあるということに、筒井は少々無自覚なのではないだろうか。
で、感想なのだがいささか微妙である。公園で発見された女の片腕、バラバラ殺人と思われる事件の捜査にあたる美男でインテリの警部、皮肉屋で饒舌なベテラン鑑識課員、彼らの初動捜査段階には合相応しくないマニアックな美学的会話から物語は始まる。
鑑識課員はこれが「極めて大きな何事かの濫觴」だという感想を述べるのだが、ここで何となく悪い予感。「濫觴」なんて言葉、日常で使うことあるか?ましてや殺人事件の捜査過程の雑談で。そもそもこの言葉、ランショウという音もきついし、漢字の印象もあまりに硬い。
濫は氾濫とか濫用とかの、みだりに過剰なという意味を先に連想してしまうし、觴に至っては何だか判らず、角が尖ったもので傷つけられるような不吉なイメージを持つばかり。両者からは溢れる禍々しさは受け取れても、小さな流れに盃を浮かべるといったほのぼのさは全く感じられないのだ。
そりゃお前の無知のせいだろと言われるだろうが、私にはこの言葉からは、ひけらかしとか、見掛け倒しといったメタなメッセージを受け取ってしまい、それが最後まで先入観として残ってしまった。では、つまらなかったのかと言うとそんなことはなく、十分楽しんで3時間余を過ごすことは出来た。ただその楽しさは、例えば水戸黄門がその権力を使って、非道な悪漢どもを懲らしめる爽快さのようなものである。
全知全能の存在が人間社会で絶対とされる正義や善という観念を軽々と手玉に取り、次々と繰り出される古今東西の知識人たちの該博というレベルを超えた引用で解説していく様は見事というしかない。結局最後は神をこえたその存在は、ある意味での叙述トリックなのだということが仄めかされるあたりで、ああまたこれかいな、と溜息をついて残りをそさくさと読み飛ばすことになるけれど。
私は以前から、筒井康隆の小説はとても面白いのに、彼が稀に書く芝居はさっぱり面白くないのは何故なんだろうと不思議に思っていた。この小説を読むと、何となくその理由がわかるような気がする。筒井の真似をしてわかりにくい表現をするなら、可能世界は言語によってそのすべてが記述されるわけではなく、言語で描かれる世界はモナドの領域の一部に過ぎないということだ。おまけにそのモナドには窓もあるということに、筒井は少々無自覚なのではないだろうか。
2015年12月7日月曜日
Playback.fm
気になるので早速自分の誕生日、1950年7月1日を検索してみれば、なんとアントン・カラスの奏でる映画「第三の男」のテーマ曲のチター演奏が流れてきた。私、この映画もテーマ曲も大好きなんだよね。これともう一つ「カサブランカ」を足せば、私にとって成熟し適度にヘタレた男の理想像を描いたイデア的作品になると言って過言ではない。そうだったのか、自分が生まれた時少なくとも米国でもっとも聴かれていた曲だったんだ。特別の感情を刺激されるのも当然だ。
ついでに、同じサイトが提供する"Find #1 Movie Day You Were Born & Watch Trailer"という映画版を検索してみる。そうしたら「花嫁の父」というコメディ映画だった。これは見てはいないが40年後にリメイクされた「花嫁のパパ」というのは見ていたので、結構面白いものだったと予想される。オリジナルには若き日のエリザベス・テイラーが出ているぐらいで。
何であれ、自分の誕生日にけっこう印象的な音楽が流行っていたことを知ったのは収穫だった。自分とは何の関係もないんだけど。それにしてもチターという楽器はすごい。超高度なテクニックを要求されるんだろうが、一台でオーケストラ並の音の広がりを表現出来る。監督はこれをはじめて聞いた時、既に映画の成功を確信したに違いない。
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