何処で知ったのか忘れてしまったが、かの筒井康隆が新作長編を出し、それも著者自ら「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長篇」と宣言しているそうな。これは読まねばならぬとアマゾンで注文。ただ単行本を買うと1500円もするので、全文が掲載されている雑誌「新潮」を980円で購入。500円得した高揚感で一気に読了。
で、感想なのだがいささか微妙である。公園で発見された女の片腕、バラバラ殺人と思われる事件の捜査にあたる美男でインテリの警部、皮肉屋で饒舌なベテラン鑑識課員、彼らの初動捜査段階には合相応しくないマニアックな美学的会話から物語は始まる。
鑑識課員はこれが「極めて大きな何事かの濫觴」だという感想を述べるのだが、ここで何となく悪い予感。「濫觴」なんて言葉、日常で使うことあるか?ましてや殺人事件の捜査過程の雑談で。そもそもこの言葉、ランショウという音もきついし、漢字の印象もあまりに硬い。
濫は氾濫とか濫用とかの、みだりに過剰なという意味を先に連想してしまうし、觴に至っては何だか判らず、角が尖ったもので傷つけられるような不吉なイメージを持つばかり。両者からは溢れる禍々しさは受け取れても、小さな流れに盃を浮かべるといったほのぼのさは全く感じられないのだ。
そりゃお前の無知のせいだろと言われるだろうが、私にはこの言葉からは、ひけらかしとか、見掛け倒しといったメタなメッセージを受け取ってしまい、それが最後まで先入観として残ってしまった。では、つまらなかったのかと言うとそんなことはなく、十分楽しんで3時間余を過ごすことは出来た。ただその楽しさは、例えば水戸黄門がその権力を使って、非道な悪漢どもを懲らしめる爽快さのようなものである。
全知全能の存在が人間社会で絶対とされる正義や善という観念を軽々と手玉に取り、次々と繰り出される古今東西の知識人たちの該博というレベルを超えた引用で解説していく様は見事というしかない。結局最後は神をこえたその存在は、ある意味での叙述トリックなのだということが仄めかされるあたりで、ああまたこれかいな、と溜息をついて残りをそさくさと読み飛ばすことになるけれど。
私は以前から、筒井康隆の小説はとても面白いのに、彼が稀に書く芝居はさっぱり面白くないのは何故なんだろうと不思議に思っていた。この小説を読むと、何となくその理由がわかるような気がする。筒井の真似をしてわかりにくい表現をするなら、可能世界は言語によってそのすべてが記述されるわけではなく、言語で描かれる世界はモナドの領域の一部に過ぎないということだ。おまけにそのモナドには窓もあるということに、筒井は少々無自覚なのではないだろうか。
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