2013年12月22日日曜日

BradyさんはBradyになりやすい

「13日の金曜日」の投稿で、英国医学雑誌" British Medical Journal"(以後BMJ)は年末に冗談論文特集をするのが常と書いたが、今年はどうだろうかと確認してみたところ、現在の最新版である12月19日号に2013年クリスマス特集として6つの論文が掲載されていた。

一つ目は「1日スタチン1錠で医者要らず」というもの。英国には「1日りんご1個で医者要らず」と言うことわざがあるらしく、最近万能の効能があるかのごとく喧伝されるスタチン(高脂血症の薬)とりんごの効能を統計的に比較すると言う内容。両者にはほぼ同じだけの死亡抑制効果があることが示されていて、「昔の教えは正しく、かつ副作用もない」というのが結論。スタチン適応拡大論者への嫌味論文ですな。

他には病棟詰め所にチョコレートを置いておくとどのぐらいの早さで消失するかとか、ジェームズ・ボンドの飲酒量が多すぎることへのアドバイスとか、馬鹿笑いすることのリスク警告とか、ネズミとクジラの幹細胞を比較すると、大きさではほとんど区別がつかないと言う報告論文など。今年はちょっと小粒という印象である。

一番おもしろかったのが、題名にあげた、名前が健康に及ぼす影響を検討するというもの。ダブリン市内で電話による調査を行い、Bradyという苗字を持つ人は徐脈性心疾患によるペースメーカー埋め込み率がオッズ比2.27で有意に高かったというもの。Bradyと言うのは遅いという意味で、bradycardiaといえば病的に脈が遅い、徐脈のこと。

Usain Boltが電光のごとく疾駆するように(Boltには電光、稲妻の意味がある)、Bradyさんはその名が示す健康状態に誘導されていくのではないかというのが著者たちの結論。この意見が正しいなら、滝川クリステルには頻脈性疾患のリスクがあるといえますな。(tachyには早いと言う意味があり、tachycardiaなら頻脈)

なお、上のビデオは60年代末に米国で放映されていたシットコム「ブラディ一家」。日本では放映されなかったようだ。なお、このドラマではBrady一家の中にペースメーカー利用者はいない。

2013年12月19日木曜日

新釈「瞼の母」

平日休みの夕方、東京は吉祥寺シアターまで出かけ、鈴木忠志の新解釈による「瞼の母」を観劇。他に「リヤ王」と「シンデレラ」もあったのだが、日にちの都合でこれになってしまった。

鈴木忠志という人も60年代末のアングラ小劇場に出自がある人だが、70年代中頃に」活動拠点を富山県利賀村に移し、もっぱらそこで公演や役者の育成をやるようになっている。いまは自分たちのあり方自体を、一種のコンセプチュアルアートとして世界に発信していることで知られる。

今回の公演パンフを読むと、鈴木は世界を病院として捉えているんだそうだ。病人である劇作家が病人としての人間を観察し、舞台を病院として造形するとのこと。今日観た「瞼の母」も例外ではなく、老人病院か介護施設で余命幾ばくもなく過ごす老婆の幻覚として芝居が展開しているそうな。

主人公の番場の忠太郎は何故かニッポンジンと言う名前になっていて、子を捨てた母親にとっての悔悟の対象にとどまらず、義に厚く仲間を救うために無私の活躍をする理想の日本のシンボルなのである。しかし母親は、20数年ぶりに自分の前に現れたニッポンジンをカタギでないからと言う理由で拒絶する。もとの話がそうだから仕方がないのだろうが、この辺りは何のことやらよく判らない。劇中の外在的なセリフには「母性帝国主義粉砕」なんてのがつぶやかれているんだが、それの寓意というわけ?

そもそも世界は病院ではないし、病院といったって一種のサービス業界でしかなく、鈴木の思い入れに一体何の意味があるんだろうと、40年以上病院でしか暮らしたことのない私は思う。ついでに言えば私は自然とともに生きるというのが大嫌いで、なんで富山の山奥でもったいぶった演劇活動なんかするのだ、アクセスのよい都会でいつも勝負していろと言いたくなる。

何か狙いはあるのだろうが、それが舞台の上でわかりやすく表現されているとは思えなかった。芝居なんて、しょせん本を読むのが面倒な人や物分かりの良くない人に、自分達の考えや主張を面白おかしく伝えるためにあるもののはずだ。能や浄瑠璃みたいな古典芸能ならいざ知らず、分かる人に分かればいいんですとなったら既に終わっているような気がする。

役者たちは妙に皆古典的演劇作法と技術を身につけていて、セリフも聞き取りやすく動きも秀逸なのだが、それがエンターテインメントにも表現にも繋がっていないように思えた。なんだか、利賀にこもって情報遮断生活しているうちに一種のオウム化が進行しているのではあるまいな、そんな不安を覚えた程である。

2013年12月17日火曜日

ある街角クリスマス・イルミネーションの興亡

私は毎日の通勤の行き帰りに、あるミニ開発の住宅地内を通ることにしている。少し近道になるのと、渋滞を避ける目的からである。狭い生活道路に入ってこられる側はいい迷惑であろうが、そこは充分な低速順守で安全運転を心がけているつもりである。

その街角では、今まで暮れの季節になると家々が競ってクリスマス・イルミネーションを並べ立てるのが習わしだった。少なくともそこの町内道路を通勤路に利用し始めた5年前から、それは既に始まっていたが、私が気づいた当初は素朴というか、生け垣の一部をクリスマスツリーに見立てたような小規模なものだった。

ところが年とともに電飾は手が込んだものとなり、特にその街角の入り口に当たる1軒の家などは、点滅を多用した動きのあるものを飾るようになっていった。昨年の飾りなどまるで仕掛け花火のナイアガラの滝のような一面の光の流れの中を、サンタクロースのソリが屋根まで上り詰めていくという、ド派手なものであった。

いくら夕方から数時間とはいえ、あれだけチカチカさせるためには結構な電気代がかかるのではないか、何より近所の家から苦情は来ないのだろうかと、人事ながら心配したものである。電飾のそうした進化というか変遷は、美術史における素朴写実からルネサンスを経て、マニエリズム、バロックへという変化を思い起こさせたものだった。

今年は一体どんなイルミネーションが飾られるのだろうか、新古典主義か、ロマン主義かなどと多少期待していたのだが、なんと今年は件の家には何の電飾もなく、二〜三軒ほどの家が控えめなイルミネーションを飾っているばかりなのである。人々は軍拡にも似たイルミネーション拡大競争に疲れ、身の丈の電飾に満足しているかのようであった。

それにしても、トップを切って派手派手イルミネーションを展開していたあの家には何があったのだろう。対外的軍事誇示方針に異を唱える勢力によるクーデターか、それ以前の経済破綻か。まさかクリスマス当日を狙って、一家玉砕も辞さぬ新型電飾兵器を開陳するのではあるまいな。そんな想像に浸ってしまい、思わず安全運転も疎かになる師走の夕暮れの街角なのだった。

2013年12月13日金曜日

13日の金曜日

今日は今年二度目にして最後の13日の金曜日である。今日を逃すと来年の6月まで13日の金曜日は来ないので、乏しいネタの一つではあるのだが、あえて話題としたい。と言って、13日の金曜日を不吉な日とするのは英語圏とドイツ・フランスぐらいで、我が国では単なる他国の迷信として知られるぐらいであろう。

それでも他国とはいえ、この手の俗信が妙に根を張っているのは興味を引かれるもので、まして医学領域で真面目に取り上げて考察している論文まであるのは更に興味深い。ここではそうした医学論文の幾つかを紹介したい。

一番有名で、あちこちで引用されるのが、1993年、英国医学雑誌12月号に掲載された「13日の金曜日はあなたの健康を害するか?」というものである。この論文ではテームズ川と交差する高速道路の通過自動車数、スーパーマーケットの来客者数、交通事故による新規入院者数を同年の13日の金曜日と6日の金曜日(当然両者の年内頻度は同じ)で比較したものである。

結論として、13日の金曜日の通過自動車数は6日より優位に少なく、マーケット来客数には変化がないが、交通事故による新規入院者数は65対45という差で増加していた。著者たちは13日の金曜日がアンラッキーな日であるのは明らかとして、その日は自宅に留まるように勧めている。

この論文は明らかにジョークで、まずたった1日の「統計」ですべてを説明しているのが妙。そもそも英国医学雑誌は年末に必ず冗談論文特集を載せるので有名なのである。それでも、今もこの論文は結構引用され(ほとんどがジョークネタとしてではあるが)続けているのである。

医学論文検索サイトPubmedで調べた限りでは、その後13日の金曜日に関して正式な医学雑誌に採用された論文は獣医師によるものを入れて10を数え、無料で読める抜粋が添えられているのはそのうち7つである。

その中でわずかながらでも13日の金曜日に不吉な悲劇が伴うとしているのは2002年、米国精神医学雑誌に掲載されたフィンランドの研究者によるもので、1971年から97年の間の交通事故死統計から、13日の金曜日には女性だけに38%の事故死増加が見られるとしている。

しかし2004年、同じくフィンランドの別の研究者は、1989年から2002年の統計を使って、女性であれ男性であれ、13日の金曜日に交通事故死が増えている事実はなかったという反論を発表している。統計の母集団が違うのだから、これは水掛け論ですがね。

それ以外の6つの論文も、すべて13日の金曜日の影響を否定するものばかりである。一番最近では2012年7月の米国救急医学雑誌に掲載された論文がある。米国バージニア州の6っの病院の救急施設利用者数を2002年から2009年まで7年間追跡し、13日の金曜日に特別な利用者数増加などは見られなかったとする。

ただ、あまりに不吉なことが重なったため、その日には救急施設を利用するまでもなく息絶えた人々が多数いたのかどうかまでは考察していないのが少々難点。

2013年12月11日水曜日

もうすぐ冬至

ふと気がつけば10日以上更新をサボっている。そうしたからと言って別に何の問題もないのだが、ブログと言うものは言うならば自分自身の決意性を確認する行為でもあるわけで、ズルズルと何も書かないままに放っておくと、自己評価が下がっていくばかりなのである、

と言って大したネタもないので、最近気がついたことでも書いてみる。私は仕事が全く好きではないが、仕事に追われるのはもっと嫌いなので、とにかく定時に帰ることだけは必ず守るようにしてきた。そのために一番有効なのはとにかく早朝出勤することである。

人より二時間早く出勤し、書類仕事を済ませ、その日のデューティをイメージトレーニングというか、一旦脳内で済ませておくわけである。既に一度イメージ上でこなした問題は本番でも案外うまく行くもので、このやり方はこの40年来自分のスタイルにしてきたつもりである。

ところが精神科単科病院というのは朝が遅く、勿論、病棟の中ではそれなりの業務が進んではいるのだが、外から人を受け入れるのは午前8時以降になるところがほとんどである。朝早く出勤したのに鍵がかかっていて院内に入れず、無意味に車の中で待っていたなんてこともよくあった。

その点、総合病院だとそれより2時間は早いというか、そもそも24時間それなりに動いているので自分のペースが作りやすい。私がもっぱら総合病院で働くのを好んだのはそういうところが理由なのかもしれない。

そんなわけで、朝の6時過ぎには仕事場に着いて自分のとろいペースで1日を始めるようにしているわけだが、それで意識せざるを得ないのが日の出、日の入り時間である、朝出勤するときや帰宅する時、真っ暗なのか明るいのかというのはかなり士気に関わる事項なのだ。

体感的には先週あたりが最も日の入りが早く、日の出は遅くなるばかりという印象。冬至はまだ先なのに、日の入りが遅くなるということがあるんだろうかと調べたところ、まさしく私の実感通りなのだ。

冬至を前にして日の入りはだんだん遅くなり、一方で日の出は1月初めまでは遅くなり続けるのである。冬至に日の出が最も遅く、日の入りは最も早くなるのかと思っていたが、違うらしい。いずれにせよ、ひと月もしないうちにまた太陽優位の季節に切り替わっていくのだ。私としてはこのまま今ぐらいの薄暗い日々が続いて欲しい気分。

全然関係ないが、春分の日や秋分の日は休日なのに、なんで冬至や夏至は休みにならないのだろう。冬至が休日になれば天皇誕生日と絡んで正月前のプチホワイトウィークとして消費増大の助けになると思いますがなぁ。夏至も6月唯一の休日になって、好感度は高いと思うんだが。