平日休みの夕方、東京は吉祥寺シアターまで出かけ、鈴木忠志の新解釈による「瞼の母」を観劇。他に「リヤ王」と「シンデレラ」もあったのだが、日にちの都合でこれになってしまった。
鈴木忠志という人も60年代末のアングラ小劇場に出自がある人だが、70年代中頃に」活動拠点を富山県利賀村に移し、もっぱらそこで公演や役者の育成をやるようになっている。いまは自分たちのあり方自体を、一種のコンセプチュアルアートとして世界に発信していることで知られる。
今回の公演パンフを読むと、鈴木は世界を病院として捉えているんだそうだ。病人である劇作家が病人としての人間を観察し、舞台を病院として造形するとのこと。今日観た「瞼の母」も例外ではなく、老人病院か介護施設で余命幾ばくもなく過ごす老婆の幻覚として芝居が展開しているそうな。
主人公の番場の忠太郎は何故かニッポンジンと言う名前になっていて、子を捨てた母親にとっての悔悟の対象にとどまらず、義に厚く仲間を救うために無私の活躍をする理想の日本のシンボルなのである。しかし母親は、20数年ぶりに自分の前に現れたニッポンジンをカタギでないからと言う理由で拒絶する。もとの話がそうだから仕方がないのだろうが、この辺りは何のことやらよく判らない。劇中の外在的なセリフには「母性帝国主義粉砕」なんてのがつぶやかれているんだが、それの寓意というわけ?
そもそも世界は病院ではないし、病院といったって一種のサービス業界でしかなく、鈴木の思い入れに一体何の意味があるんだろうと、40年以上病院でしか暮らしたことのない私は思う。ついでに言えば私は自然とともに生きるというのが大嫌いで、なんで富山の山奥でもったいぶった演劇活動なんかするのだ、アクセスのよい都会でいつも勝負していろと言いたくなる。
何か狙いはあるのだろうが、それが舞台の上でわかりやすく表現されているとは思えなかった。芝居なんて、しょせん本を読むのが面倒な人や物分かりの良くない人に、自分達の考えや主張を面白おかしく伝えるためにあるもののはずだ。能や浄瑠璃みたいな古典芸能ならいざ知らず、分かる人に分かればいいんですとなったら既に終わっているような気がする。
役者たちは妙に皆古典的演劇作法と技術を身につけていて、セリフも聞き取りやすく動きも秀逸なのだが、それがエンターテインメントにも表現にも繋がっていないように思えた。なんだか、利賀にこもって情報遮断生活しているうちに一種のオウム化が進行しているのではあるまいな、そんな不安を覚えた程である。
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