朝方、寒さで早くに目覚める。枕元の目覚ましについている温度計は9℃ちょっとを表示している。猫も寒さに耐えられなかったのか、自分のベッドを出てきて私にぴったり寄り添って寝ている。よく見ればベランダにつながるサッシ戸を開けっ放しにして寝ていたのである。寒いのもあたりまえだ。なんで開けっ放しだったかは記憶が定かで無い。
それでも世の中はほぼ冬に向けて足早に変化しつつあるのだなと体得したので、今日は掃除も兼ねてリビングにコタツを出すことにした。何分にも築30年近いオンボロマンションなので、床暖房などという洒落たものはついておらず、仮に付いていたとしても、老後生活が破綻しないかと不安で、日々しみったれな暮らしぶりが定着しつつある昨今、そんな燃費の悪そうな暖房手段を使うわけもない。
いつもより5分は多めに掃除機をかけた後、テーブルを片付けて代わりにコタツを出す。狭い家なのにコタツの下に敷いていたカーペットやコタツ布団一揃いを発見するのに約30分以上かかり、おまけに発見したそれらの用具は、しまうときにそのまんま収納場所に放り込んでいたらしく、猫の抜け毛だらけである。なんとか妥協できるところまで掃除機で抜け毛を吸い取り、すべての作業が終わったら昼過ぎになっていた。
残り半日となった休日は買い物、料理、洗い物、洗濯などのルーチンワークであっという間に終了。これで5月の連休頃にはまたコタツをしまい、冬前にまた出すことの繰り返しをするんだな。それを今後20回ほどやればというか、やれなくなる頃には寿命も尽きるのか。結局私の人生はコタツの準備と片づけ以上のものではないのかもしれないなと、変に達観する晩秋の落日なのだった。
2014年11月16日日曜日
2014年10月30日木曜日
Trick or Treat!
このままでは10月のエントリーが無くなるという危機感のみからの急遽書き込み。
最近細かな手の動きがぎこちなくなり、キーボードの打ち込みなどが実にやりにくくなった。客観的には震えこそないと思えるのだが、実際には軽く震えがあるらしく、その証拠に電子カルテの記載にしばしば、”っ”がまじり混む。ご存知のように、子音の二重打ちは「っ」と変換されるように大概の日本語変換ソフトは設定されている。
私の場合、「っ本患者はコンッ月初めっごろから意欲っ減退がっ進行し…」てな具合。子音のキーで二重押しを気づかぬ間にしているのである。職場の電子カルテPCの日本語変換アプリがトンでもなく馬鹿なこともあり、気がついたらありえないような記載になっていることもしばしば。
私みたいな肥満傾向のある人間はパーキンソン症候群に悩まさることは稀だと勝手に思い込んでいたんですがね。その根拠は今まで診たパーキンソン症候群の患者にデブはいなかったということだけなんだが。もしかしたらデブのパーキンソン病の初回例というのを自分で演ずることになるのかも。
ここまで書いて表題と無関係なことに気づいた。私の住処の目の前には某大手コンビニが有り、今月中なら店員に"Trick or Treat!"と声をかけるとキャンデイがもらえるキャンペーンをやっているんだそうだ。ほぼ毎日そこを利用する私なのだが、やはり恥ずかしくてそんなことは言えず、いまだキャンディは貰えていない。
まあいいわ、キャンデイなんて欲しいわけでもなし、と自分を納得させているのだが、これは老化に伴う柔軟性の消失と言う奴かもしれない。手の動きのぎこちなさと言い、自覚していない振戦の進行といい、確実な老化所見が増多してきているのは間違いない。ハロウインもまた避けがたい老化といつかは来る死への覚悟を迫る文化的装置なんだなぁと、何故か先走って見当外れに思いこむ晩秋の一日なのだった。
最近細かな手の動きがぎこちなくなり、キーボードの打ち込みなどが実にやりにくくなった。客観的には震えこそないと思えるのだが、実際には軽く震えがあるらしく、その証拠に電子カルテの記載にしばしば、”っ”がまじり混む。ご存知のように、子音の二重打ちは「っ」と変換されるように大概の日本語変換ソフトは設定されている。
私の場合、「っ本患者はコンッ月初めっごろから意欲っ減退がっ進行し…」てな具合。子音のキーで二重押しを気づかぬ間にしているのである。職場の電子カルテPCの日本語変換アプリがトンでもなく馬鹿なこともあり、気がついたらありえないような記載になっていることもしばしば。
私みたいな肥満傾向のある人間はパーキンソン症候群に悩まさることは稀だと勝手に思い込んでいたんですがね。その根拠は今まで診たパーキンソン症候群の患者にデブはいなかったということだけなんだが。もしかしたらデブのパーキンソン病の初回例というのを自分で演ずることになるのかも。
ここまで書いて表題と無関係なことに気づいた。私の住処の目の前には某大手コンビニが有り、今月中なら店員に"Trick or Treat!"と声をかけるとキャンデイがもらえるキャンペーンをやっているんだそうだ。ほぼ毎日そこを利用する私なのだが、やはり恥ずかしくてそんなことは言えず、いまだキャンディは貰えていない。
まあいいわ、キャンデイなんて欲しいわけでもなし、と自分を納得させているのだが、これは老化に伴う柔軟性の消失と言う奴かもしれない。手の動きのぎこちなさと言い、自覚していない振戦の進行といい、確実な老化所見が増多してきているのは間違いない。ハロウインもまた避けがたい老化といつかは来る死への覚悟を迫る文化的装置なんだなぁと、何故か先走って見当外れに思いこむ晩秋の一日なのだった。
2014年9月21日日曜日
データの見えざる手
Facebookで評判になっていたので、時代遅れになってはイカンとこっそりAmazonで購入。小ぶりの本だったが読み終わるのに結構時間がかかった。と言うのも著者が理系バリバリの人で、統計力学の概念や数式がそこら中で使われており、そう言うのが出てくるたびにWikipediaなんかの解説を読まないとまるきり腑に落ちない内容であったからだ。
著者の矢野氏は早稲田から日立製作所に入社。1993年には「単一電子メモリの室温動作」に世界で始めて成功したのだそうだ。何のことかよく判らないが、多分すごいことなのだろう。ここ10年は「ウエアラブル技術とビッグデータ収集・活用で世界を牽引」してきた人だという(カッコ内は奥付から引用)。この本は後者の中身を素人に判りやすく解説する目的で書かれたものだと思うが、私ごときには判らない部分はやはり判らない。
矢野氏のチームはまず、腕時計状の加速度センサを使って被験者の動きを記録した。そうして一分間の腕の動きの回数とその出現頻度比率の関係を見たところ、比率を対数軸で表せばきれいに右肩下りの直線に乗ることを見出した。これは分子のブラウン運動を観測した時の結果と同じなんだそうで、統計力学ではボルツマン分布として知られるものであるそうな。
この辺りで私なんかは「は〜そうですか」と棒読み感想を述べるしかないが、著者によれば、これは人が自分の意志で自由に行動を決めていると考えているが、じつはマクロ的には我々の行動は普遍的な法則によって導かれている事を示しているという。ミクロ的意志や思いを知らずとも、マクロ的な人間行動の分析は可能であるとも。
私らの商売をしていると、ああ、新手の行動主義ですかと思ってしまうのがイカンところで、その後の著者の主張にもついつい疑いの眼をむけてしまうが、出だしの部分以後は至極判りやすい、個々の人々の動きから見た職場の効率分析の話になる。センサを首からぶら下げる名札にし、動きと位置、人々の相互関係を記録し、生産性との関連を見る。あるコールセンターの事例では、休み時間の賑やかさが案件処理効率と明らかな相関があった。
相関を見る時、事前に仮説を立てないのも重要らしく、大量のデータから相関を発見するのは日立が作ったデータ処理システム自身だそうである。著者たちはあるホームセンターでの分析で、販売従業員の立ち位置と売上の関連を見出したが、その最適位置というのは、およそ常識的に予測することが出来ないものであったという。
こうした客観的なデータに加え、質問紙法による主観的内容を組み合わせれば「幸せ」というものも測定できるのではないか、というのも著者の主張で、それによれば効率的に運営されている職場では従業員の幸せ自覚度は高く、その企業の生産性や収益性も高いのだそうである。労働者が幸せなら企業も儲かるということである。
日頃、青息吐息の経営状態の会社から、無理難題を押し付けられて不平不満に満ち満ちた生活を送っている人々(日○の社員も結構いるような…)の愚痴を散々聞かされている立場からは、それが本当ならいいねと心から思う。労働と幸福が同じことを意味する社会が実現するよう、著者のチームの今後のさらなる活躍を期待するものだ。
著者の矢野氏は早稲田から日立製作所に入社。1993年には「単一電子メモリの室温動作」に世界で始めて成功したのだそうだ。何のことかよく判らないが、多分すごいことなのだろう。ここ10年は「ウエアラブル技術とビッグデータ収集・活用で世界を牽引」してきた人だという(カッコ内は奥付から引用)。この本は後者の中身を素人に判りやすく解説する目的で書かれたものだと思うが、私ごときには判らない部分はやはり判らない。
矢野氏のチームはまず、腕時計状の加速度センサを使って被験者の動きを記録した。そうして一分間の腕の動きの回数とその出現頻度比率の関係を見たところ、比率を対数軸で表せばきれいに右肩下りの直線に乗ることを見出した。これは分子のブラウン運動を観測した時の結果と同じなんだそうで、統計力学ではボルツマン分布として知られるものであるそうな。
この辺りで私なんかは「は〜そうですか」と棒読み感想を述べるしかないが、著者によれば、これは人が自分の意志で自由に行動を決めていると考えているが、じつはマクロ的には我々の行動は普遍的な法則によって導かれている事を示しているという。ミクロ的意志や思いを知らずとも、マクロ的な人間行動の分析は可能であるとも。
私らの商売をしていると、ああ、新手の行動主義ですかと思ってしまうのがイカンところで、その後の著者の主張にもついつい疑いの眼をむけてしまうが、出だしの部分以後は至極判りやすい、個々の人々の動きから見た職場の効率分析の話になる。センサを首からぶら下げる名札にし、動きと位置、人々の相互関係を記録し、生産性との関連を見る。あるコールセンターの事例では、休み時間の賑やかさが案件処理効率と明らかな相関があった。
相関を見る時、事前に仮説を立てないのも重要らしく、大量のデータから相関を発見するのは日立が作ったデータ処理システム自身だそうである。著者たちはあるホームセンターでの分析で、販売従業員の立ち位置と売上の関連を見出したが、その最適位置というのは、およそ常識的に予測することが出来ないものであったという。
こうした客観的なデータに加え、質問紙法による主観的内容を組み合わせれば「幸せ」というものも測定できるのではないか、というのも著者の主張で、それによれば効率的に運営されている職場では従業員の幸せ自覚度は高く、その企業の生産性や収益性も高いのだそうである。労働者が幸せなら企業も儲かるということである。
日頃、青息吐息の経営状態の会社から、無理難題を押し付けられて不平不満に満ち満ちた生活を送っている人々(日○の社員も結構いるような…)の愚痴を散々聞かされている立場からは、それが本当ならいいねと心から思う。労働と幸福が同じことを意味する社会が実現するよう、著者のチームの今後のさらなる活躍を期待するものだ。
2014年8月27日水曜日
やがて消え行く我が身なら
本箱の片隅に忘れられていた池田清彦のエッセイ集、「やがて消え行く我が身なら」を発見。侘び寂びの極致かと思える題名は、秋雨のはしりのような冷たい雨の降る日に読むにはまことにふさわしいと数時間で読了。
ここのところ村上春樹ばかり読んでいて、赤裸々な性と生の描写にいささか辟易しかけていたのもあって、池田氏の軽妙というか、投げ遣りというか、面倒くささとやる気のなさが力強く伝わってくる文体に心安らぐものを感じてしまう。
氏は明石屋さんまが司会をやっている「ホンマでっか!TV」のメインコメンテーターをつとめておられるのでご存じの方も多いであろう。普段はTVをほとんど見ない私も、あの番組だけは3回に1回ほどは見ている。お目当ては池田氏その人。昔、この人の「構造主義生物学」という立場の著書をほとんど読みつくしたことがあるのだ。どんな風貌の人なのだろうと思っていたら、大滝秀治とほとんど区別がつかなかった。しゃべり方はまったく違いますが。
なかなかの特異的学究なのだが、どこか脱力したところのあるその学問的態度も好ましければ、私が自分なりに精神症状や対人関係病理を構造主義的に捉えようとしてきた努力をより一般的な立場から解説してくれているように感じたのがハマった原因。私の構造主義的精神医学は手抜き(効率的とも言う)臨床をすすめる上で実に役立ったが、ねっからの怠け者である私はまとまった形にして発表することは結局出来なかった。
さて、「やがて消えゆくー」の内容であるが、他人の権利を侵害しない限り、人は好きなことをする自由があり、国家や社会はそれを守る制度を作るべきだというリバタリアン(オバタリアンではない)としての池田氏の視点から、様々なことに触れたものとまとめるしかない。といっても彼の生物学者としての基本になっている虫取りの話とか、生と死についての話題が多いのは当然。
人はいずれ死ぬのだから、今日を面白く生きることに傾注しよう。金をためたり仕事をしたり、拳を振り上げて人に自分の情緒を吹き込んだりするヒマなんかないよ、という結論につながる話が最初から最後まで目白押しと思って頂ければいい。そもそも「面白い」とはどういうことかという疑問にも、たしか答えていたんではなかったかな。もちろん、そんなものは人それぞれなので、多少はぐらかされるのは致し方無いけれど。
ここのところ村上春樹ばかり読んでいて、赤裸々な性と生の描写にいささか辟易しかけていたのもあって、池田氏の軽妙というか、投げ遣りというか、面倒くささとやる気のなさが力強く伝わってくる文体に心安らぐものを感じてしまう。
氏は明石屋さんまが司会をやっている「ホンマでっか!TV」のメインコメンテーターをつとめておられるのでご存じの方も多いであろう。普段はTVをほとんど見ない私も、あの番組だけは3回に1回ほどは見ている。お目当ては池田氏その人。昔、この人の「構造主義生物学」という立場の著書をほとんど読みつくしたことがあるのだ。どんな風貌の人なのだろうと思っていたら、大滝秀治とほとんど区別がつかなかった。しゃべり方はまったく違いますが。
なかなかの特異的学究なのだが、どこか脱力したところのあるその学問的態度も好ましければ、私が自分なりに精神症状や対人関係病理を構造主義的に捉えようとしてきた努力をより一般的な立場から解説してくれているように感じたのがハマった原因。私の構造主義的精神医学は手抜き(効率的とも言う)臨床をすすめる上で実に役立ったが、ねっからの怠け者である私はまとまった形にして発表することは結局出来なかった。
さて、「やがて消えゆくー」の内容であるが、他人の権利を侵害しない限り、人は好きなことをする自由があり、国家や社会はそれを守る制度を作るべきだというリバタリアン(オバタリアンではない)としての池田氏の視点から、様々なことに触れたものとまとめるしかない。といっても彼の生物学者としての基本になっている虫取りの話とか、生と死についての話題が多いのは当然。
人はいずれ死ぬのだから、今日を面白く生きることに傾注しよう。金をためたり仕事をしたり、拳を振り上げて人に自分の情緒を吹き込んだりするヒマなんかないよ、という結論につながる話が最初から最後まで目白押しと思って頂ければいい。そもそも「面白い」とはどういうことかという疑問にも、たしか答えていたんではなかったかな。もちろん、そんなものは人それぞれなので、多少はぐらかされるのは致し方無いけれど。
2014年8月3日日曜日
1Q84
私は村上春樹の絶大なファンと言うわけではないが、読めば確実に面白く、それなりに考えさせられるところ大な作品を生み出し続けている人だとは認識している。しかし社会現象的に売れる理由まではわからない。古本や文庫で安く買えれば読んでおこうと思う程度。
2009年にこの本が出た時、私は題名を”IQ84"だと勘違いし、やや低めに位置する知的能力のフイルタで見る世界の相貌といった趣向の小説なのだろうと勝手に決めていた。よく見れば一字目がIではなく1であった。活字のニュースだけ見ているととんでもない間違いをすることもある好例であろう。
”1Q84"には当然ジョージ・オーウェルのディストピア小説"1984"も下敷きになっているのだろう。ビッグ・ブラザーならぬリトル・ピープルなんてのが出てくるとこからもそう予想して読んでいったのだが、ユートピアを求める団体との関係が大きなモチーフになってはいるものの、それがメインのテーマではないようだ。
一言で言えば間違って入り込んでしまった世界からの脱出譚というパラレルワールド物SFだ、と言うのはあまりに乱暴なまとめになるが、その活劇ストーリーを追いながら個々のシーンでの村上春樹独特の洒落た文体と描写を楽しめたので、まあ充分以上の商品価値を与えてもらえたことになろうか。
疑問点を上げれば、なんで作者はそう必然性があるとも思えないのに、あれだけ克明なポルノ描写を重ねないといけないのだろうかという点。私のような純情老人見習い期をのほほんと過ごしている読者には、そこがいささか居心地の悪さを感じさせるところである。まさか、人がコソコソせずに堂々とポルノを読めると言う理由でベストセラーになったのではないだろうね。
2014年7月20日日曜日
抜け目のない未亡人
チケットが余ったからと、友人から只で提供してもらえる事になり、それも土曜日の夕方というグッドタイミング、遠慮もなく久々の観劇に出かけた週末である。
場所は新国立劇場。新宿駅から京王新線でひと駅の初台駅から専用通路があるというリッチな作り。箱物文化をバカにしてはいけません。便利さ故に早くつきすぎてしまい、劇場内のイタリアンレストランでまず夕食。
大層な名前がついた広いレストランなのだが、客がいない。悪い予感というか、デジャブ感にとらわれる。出てきた料理をひとくち食べて、あまりの不味さに思い出した。この劇場に来たのは二回目で、初めての時もこのレストランで食事をし、その不味さに辟易したのをころりと忘れていたのだった。
おのれの記憶力の衰えに悪態をつきつつ友人と落ち合い、劇場内へ。席は一回ホールの最後方だが広い舞台を見渡せる絶好の位置である。小劇場のテント芝居なんかでは席に収まること自体に多大の苦痛と困難があるものだが、さすが新国立劇場、座席も実に快適。
お芝居は18世紀イタリアの喜劇作家カルロ・ゴルドーニの作品をかの三谷幸喜がアレンジしたもので、18世紀のシチュエーション・コメディをどんな風に料理するのかが興味あるところ。昔々、ミラノ・ピッコロ座という劇団によるゴルドーニの芝居を観た時には(TVで観たんだけれど)、狂言廻しの要となる道化役、アルレッキーノ役者の身体能力に驚嘆したものだった。その時の驚きが幾らかは再体験できるかなという期待があったのだが、結果としては少々微妙であった。
夫を失ったばかりの美しい未亡人に4人の求婚者が恋の鞘当てを繰り広げ、未亡人も彼らの本心を知ろうとベネチア仮面舞踏会を利用して策略をつくすという元の話を、三谷はベネチア映画祭を舞台に、夫の死を期に再復帰を狙う往年の大女優(大竹しのぶ)と、4人の映画監督による勧誘合戦に置き換えている。判りやすくなって宜しいとも言えるが、翻案とはいえどうせ古典作品、不自然なところがあるのは仕方なく、なんだか違和感が残るのは致し方無い。
大女優や監督たちが泊まっているホテルの支配人代行のアルレッキーノを演じた八嶋智人は、八面六臂の活躍で物語を進めていくのだが、やはりピッコロ座の道化役者と比べてしまうので迫力に欠けると言わざるをえない。まああれだけ頑張ればよしとするべきか。細かなことはあれ、座席の快適さ、俳優陣の多彩さ、何よりチケットが只だったということが最大の理由で、まずまず楽しめた週末の夜だった。
場所は新国立劇場。新宿駅から京王新線でひと駅の初台駅から専用通路があるというリッチな作り。箱物文化をバカにしてはいけません。便利さ故に早くつきすぎてしまい、劇場内のイタリアンレストランでまず夕食。
大層な名前がついた広いレストランなのだが、客がいない。悪い予感というか、デジャブ感にとらわれる。出てきた料理をひとくち食べて、あまりの不味さに思い出した。この劇場に来たのは二回目で、初めての時もこのレストランで食事をし、その不味さに辟易したのをころりと忘れていたのだった。
おのれの記憶力の衰えに悪態をつきつつ友人と落ち合い、劇場内へ。席は一回ホールの最後方だが広い舞台を見渡せる絶好の位置である。小劇場のテント芝居なんかでは席に収まること自体に多大の苦痛と困難があるものだが、さすが新国立劇場、座席も実に快適。
お芝居は18世紀イタリアの喜劇作家カルロ・ゴルドーニの作品をかの三谷幸喜がアレンジしたもので、18世紀のシチュエーション・コメディをどんな風に料理するのかが興味あるところ。昔々、ミラノ・ピッコロ座という劇団によるゴルドーニの芝居を観た時には(TVで観たんだけれど)、狂言廻しの要となる道化役、アルレッキーノ役者の身体能力に驚嘆したものだった。その時の驚きが幾らかは再体験できるかなという期待があったのだが、結果としては少々微妙であった。
夫を失ったばかりの美しい未亡人に4人の求婚者が恋の鞘当てを繰り広げ、未亡人も彼らの本心を知ろうとベネチア仮面舞踏会を利用して策略をつくすという元の話を、三谷はベネチア映画祭を舞台に、夫の死を期に再復帰を狙う往年の大女優(大竹しのぶ)と、4人の映画監督による勧誘合戦に置き換えている。判りやすくなって宜しいとも言えるが、翻案とはいえどうせ古典作品、不自然なところがあるのは仕方なく、なんだか違和感が残るのは致し方無い。
大女優や監督たちが泊まっているホテルの支配人代行のアルレッキーノを演じた八嶋智人は、八面六臂の活躍で物語を進めていくのだが、やはりピッコロ座の道化役者と比べてしまうので迫力に欠けると言わざるをえない。まああれだけ頑張ればよしとするべきか。細かなことはあれ、座席の快適さ、俳優陣の多彩さ、何よりチケットが只だったということが最大の理由で、まずまず楽しめた週末の夜だった。
2014年7月1日火曜日
誕生日
Googleの画面ロゴがまた変わっており、マウスオンしたら私への誕生日祝いのメッセージが出るようになっていた。そういえば昨年もこれに気がついてなにか書いたような気がする。
最近、日々そのものが過ぎていく感覚が何故か遅くなり、ましてや給料日が来るのはいつのことなんだと思わせるほど一ヶ月までは長いのだけれど、2〜3ヶ月ぐらいのまとまった時間になると、すぐに過ぎ去ってしまうという不思議な時間感覚にとらわれるようになった。ましてや一年なんかあっという間である。
歳を取れば時の過ぎるのが早くなるというのは誰もが言い、たしかに私もそう感じるのだが、短い時間に関しては逆に感じるようになったわけである。仕事場でふと暇になり、30分後に別のスケジュールがあるなんて時、どうその30分を潰すか困惑してしまうこともしばしば。
読みかけのミステリ小説をポケットに入れておくというのも一時やってみたが、あまり人前で堂々とやれることでもなく、そう面白い小説が沢山あるわけでもないので、すぐにネタ切れになってしまうのが欠点。「カラマーゾフの兄弟」でも読めばかなり時間潰しは出来そうだが、それはちょっとね。
とにかく、時間感覚の非直線化という奇妙な現象が、ボケや老人性精神障害の前兆でないことを祈りつつ、日々を何とか乗り切っていくしかない。多分あっという間に来年の今頃がやってきて、また同じようなことを書くことになるのだろう。それがとんでもない楽観だったのだと思うことにならないよう、ささやかな現状が維持されることを念じるしかない。
最近、日々そのものが過ぎていく感覚が何故か遅くなり、ましてや給料日が来るのはいつのことなんだと思わせるほど一ヶ月までは長いのだけれど、2〜3ヶ月ぐらいのまとまった時間になると、すぐに過ぎ去ってしまうという不思議な時間感覚にとらわれるようになった。ましてや一年なんかあっという間である。
歳を取れば時の過ぎるのが早くなるというのは誰もが言い、たしかに私もそう感じるのだが、短い時間に関しては逆に感じるようになったわけである。仕事場でふと暇になり、30分後に別のスケジュールがあるなんて時、どうその30分を潰すか困惑してしまうこともしばしば。
読みかけのミステリ小説をポケットに入れておくというのも一時やってみたが、あまり人前で堂々とやれることでもなく、そう面白い小説が沢山あるわけでもないので、すぐにネタ切れになってしまうのが欠点。「カラマーゾフの兄弟」でも読めばかなり時間潰しは出来そうだが、それはちょっとね。
とにかく、時間感覚の非直線化という奇妙な現象が、ボケや老人性精神障害の前兆でないことを祈りつつ、日々を何とか乗り切っていくしかない。多分あっという間に来年の今頃がやってきて、また同じようなことを書くことになるのだろう。それがとんでもない楽観だったのだと思うことにならないよう、ささやかな現状が維持されることを念じるしかない。
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