2013年8月22日木曜日

月の光

Googleのタイトルロゴが満月の動画だったので、確か昨日が満月だったから、そのせいかと思っていたら、ドビュッシー生誕151年記念とのこと。

えらく中途半端な年限の生誕記念タイトルロゴである。去年150年記念なんてやってたかなぁ。勿論、満月ごとに記念ロゴなんか作らないのも当然なんだが。

私事で恐縮ながら、私はこの季節の満月には実は少々過敏なのだ。長年患っていた妻が最後の入院をしたのが数年前のちょうど今頃だった。その夜、付き添いから帰る頃、病院の真上に満月がでていて、ドビュッシーの「月の光」が聞こえてきそうな雰囲気だった。結局彼女は次の満月まで入院生活を続け、あまり長いとはいえない生涯を閉じた。

たいして時間もたっていないのに、病理解剖やら、死後の様々な手続きやらを済ませたあと、遺体をどう扱っていたのかと言うあたりの記憶が綺麗に欠落しているのが不思議だ。狭いマンションに連れ帰っていたはずもなく、葬儀屋さんに預かって貰ったんだろうなぁ。なのにそれでも帰り道に見たその夜の満月ははっきり覚えている。

この季節の満月のたびに感じていた寂寥感も、ドビュッシーの伴奏付きならもう少し過ごしやすいものになるかもしれない。そんな切っ掛けを与えてくれたのかもしれないGoogleに感謝しておこう。

2013年8月16日金曜日

あなたは日本で何番目のお金持ち?

小飼弾さんのブログ、"404 Blog not Found"に面白い記事があった。金融資産総額を入力して、日本で何番目のお金持ちかを計算するJavaScriptである。恥知らずにも、そのままコピペして下に貼り付けてみた。

小飼氏によれば「資産分布はパレート分布に従う」のだそうで、パレート指数を決めるには資産額の平均と中心値が判ればよく、後は累積を出せば日本の総人口から順位が決まるのだそうだ。

ほとんど理解は出来ないが、Scriptは面白いので私の乏しい老後資金現在額を入力してみる。予想通りかなり後ろの方に並んでいるので、このままボケるまで勤めて貯められる額のギリギリあたりを想定して入力。それでも日本にはたくさん金持ちがいるんだなぁ、という感想が得られるばかりであった。

そりゃ個人金融資産は総額1506兆円と報道されるぐらいだものな。なんだかアホらしくなる真夏の夕映えである。
金融資産 円をお持ちのあなたは、 日本で19116番目の金持ちです。

2013年8月14日水曜日

半沢直樹

「半沢直樹」というTVドラマが人気なんだそうである。30%近い視聴率を稼いでいるそうで、TV離れが囁かれる昨今、関係者は笑いが止まらぬことであろう。私はTVを殆ど見ないので、ウエブサイトの予告編みたいなのをちょこっと見ただけであるが、確かに面白そうではある。だからといってTVを観ようとは思わないけど。

私が興味をひかれるのはその題名である。日本人のフルネームが題名なんてドラマが今までそんなにあったであろうか。その昔「刑事コロンボ」という米国産ドラマが放映されていたが、その原名は"Columbo"であった。何かのエッセイで、日本ではせめて「刑事」とつけないと、単なる個人名だけを題名にするのは無理だと書かれてあったのをいまだに覚えているのである。

例えば、「明智」とか「金田一」という推理ドラマを想像できるだろうか、日本人はやはり機能的な修飾語がない個人名を表に出すことには抵抗があるのだ、というような論法であったように思う。ところが今回の半沢直樹である。「銀行員半沢直樹」ですらない。個人名だけで世間と対峙する姿勢丸出しなのである。

そもそも、海外の文学作品や映画のタイトルには個人名のみ、というのは結構ある。歴史上の人物を除いて思いつくのは、フルネームだけでもジョン・カーターとかジャッキー・ブラウンとか、アニー・ホールなどなど。えらく恣意的だが、時間をかければもっと指摘出来ると思う。

その点、日本では文学作品、それも森鴎外には歴史上の人物名をそのまま作品名にした小説は何点かあるが、夏目漱石には苗字なしの「三四郎」があるぐらいである(私は長いことあれが『姿三四郎』の原作だと思っていた)。その後の作品名にも歴史上の人物名は出てくるが、創造された人物名を題名にした小説や映画と言うのは、それこそ姿三四郎(これは皆が周知のモデル小説であったらしいが)以外は寡聞にして知らない。

これは「課長島耕作」あたりから、フィクションの中であっても少しずつフルネームで世間と対峙する主人公が存在感を主張するようになり、やがてその職名すら不要になるパラダイムチェンジが起こってきたのであろうか。

私もその末端にぶら下がっている団塊の世代に対する、あまり根拠があるとは思えない批判がその背後にあるように思われるのが少々気にはなるのだが、この日本で何らかのグローバルスタンダードな人と社会との関わりに関する変化が起こる兆しなのかな、と思わないでもない。

2013年8月13日火曜日

100匹目の猿、あるいは底辺労働者蜂起

コンビニやファミレス系のアルバイト職員が、自分が働く現場にある冷蔵庫に入っているところを撮らせた画像をSNSにアップして炎上という事件?がこの7月ごろから相次いでいるのだそうだ。

先日はブロンコビリーという、田舎者は聞いたこともない首都圏のステーキハウスでも同じようなことがあり、運営会社はその事件があった支店の閉店を決め、バイト従業員に賠償訴訟を起すことを決めたという。

たかが2ヶ月ぐらいの間に、全く同時多発的に横の連絡もない人々が同じような事件を起こし、しかもそれが愉快犯というより、かなり不愉快な反応を事件主体当事者に引き起こしているのにあえて繰り返されているというのに私は不思議な感覚を覚えた。

まるで攻殻機動隊のstand alone complexではないか。しかし電脳ウイルスが人々を操る前提となる個人の電脳化が全く進んでいない現状ではそんなこともありえない。擬似神秘主義の立場からは100匹目の猿現象をこれに当てはめる意見もある。新奇な行動をおこす個体が一定の数を超えれば、それは文化として定着すると言うヨタというか意見である。

でも、あの「100匹目の猿」というのは、ニューエイジサイエンス研究者?のライエル・ワトソンがニホンザル集団の観察記録を勝手に改竄利用してでっち上げたものであることは既に証明されているしな。いまだに持ちあげているのは松岡正剛ぐらいだろう。

ウェブ内の意見で最も感心したのはド・ブロイ理論を援用して、波と解釈されるコンビニ店員が地球温暖化によるポテンシャルエネルギー上昇により、ある閾値を超えたためにトンネル効果が生じ、古典論ではありえないとされていた冷蔵庫内で観測されるに至ったという意見。よく判らないが傾聴に値する。(リンクとそれに対するコメント)

社会理論的には、アベノミクスによって流動化が決定的となった底辺労働者が、自らを冷蔵化することで流動化に抗しようとする自然発生的反抗行動なのかもしれない。SNSへの発信と結果としての炎上も「連帯を求めて孤立を恐れず」という動きの一環なのかもしれない。

2013年8月10日土曜日

愛犬探しのチラシ

自宅の郵便受けにこんなチラシが入っていた。ベースの紙はPPC用紙ながら、カラーレーザープリンタで印刷されていて、おそらくプロの手が入っていると思われるデザインは普通の宣伝チラシと遜色ない。

この犬がいなくなったのは私の家から10km以上離れたところなので、かなりの範囲に撒かれたものとおもわれる。たまに電信柱やスーパーの掲示板に迷い犬や猫の問合せが貼られているのを見るが、ここまで大規模なのは初めて見た。余程愛されていた犬なんだろうな。うちのノエルがいなくなっても、ここまではやらんだろう。

そのくせ逃げちゃった、というのが多少解せないが、何かでパニック起こして、闇雲に走り去ってしまい、自分の居場所がわからなくなるということもあるのかもしれない。

10日前にいなくなったそうだが、この炎天下、何事も無くこの犬が飼い主のもとに帰れることを祈りたい。チラシの画像にぼかしを入れるかどうかについては一寸考えたが、飼い主に確認したわけでもないので個人情報に関係する部分にはフィルターをかけておいた。

2013年8月8日木曜日

Famous Eyeglasses

イタリア人マルチメディアデザイナー、フェデリコ・マウロ氏による掌編ビデオ"Famous Eyeglasses"。

メガネで有名な実在人物、創作上の人物(のメガネだけ)が次々に音楽、もしくは音声とともに表示される。

なんだかさっぱり判らんものもいくつか混じっているが、なんとなく判るものもあるので、ちょっとした頭の体操になるかも。

ちなみに私の正解率は21問中16。音響が結構ヒントになりますね。判らんのは観たことのない映画のキャラとか、イタリアの有名芸能人だったりするんだろうけれど、シルビオ・ベルルスコーニにはお手上げ。画像検索してみても、あんなサングラスしている所は見つからなんだ。

2013年8月2日金曜日

バルス祭り?

今夜はどこかのTV局で「天空の城ラピュタ」が放映されるそうで、その際にtwitterなどで組織的に、物語内で使われる滅びの呪文、「バルス」を皆で呟こうという大衆的示威行動?が提唱されているのだそうだ。

滅多に見ないネットニュースに書いてあったのでどこまで本当かどうか知らないが、選挙などではほとんど無力なネット大衆行動が、こういうあまり意味があるとは思えない所で成立するかもしれないというのは、ある意味ネットの潜在的パワー示威になっているのかもしれない。

今のところは悪ふざけしかしないが、気分が向いたらもっとヤバイことまで出来ますぜ、というメッセージがこの手の悪戯にはたっぷり込められているように思える。というか、「そうであってほしいな」という爺さまの願望が99%なんだけれどね。

それは別にして、緊急時の秘密パスコードがたったの三文字という、ラピュタのセキュリティ対策には少々問題があるように思える。「友達の家に来てみれば留守だった」とか「いまバル、すぐ来てよ」にいちいち反応して崩壊していたら、兵器としての信頼性はほぼゼロである。

一般社会において、そうしたセキュリティホールにうまくつけこんで、かつ社会的に有用となるような示威行動が存在し得るか、と言われると一寸無理なようには思える。当面はつまらぬ悪ふざけ程度が続くだけなのかもしれない。勿論、永遠にそれに終わるだけである可能性も高い。