2013年8月14日水曜日

半沢直樹

「半沢直樹」というTVドラマが人気なんだそうである。30%近い視聴率を稼いでいるそうで、TV離れが囁かれる昨今、関係者は笑いが止まらぬことであろう。私はTVを殆ど見ないので、ウエブサイトの予告編みたいなのをちょこっと見ただけであるが、確かに面白そうではある。だからといってTVを観ようとは思わないけど。

私が興味をひかれるのはその題名である。日本人のフルネームが題名なんてドラマが今までそんなにあったであろうか。その昔「刑事コロンボ」という米国産ドラマが放映されていたが、その原名は"Columbo"であった。何かのエッセイで、日本ではせめて「刑事」とつけないと、単なる個人名だけを題名にするのは無理だと書かれてあったのをいまだに覚えているのである。

例えば、「明智」とか「金田一」という推理ドラマを想像できるだろうか、日本人はやはり機能的な修飾語がない個人名を表に出すことには抵抗があるのだ、というような論法であったように思う。ところが今回の半沢直樹である。「銀行員半沢直樹」ですらない。個人名だけで世間と対峙する姿勢丸出しなのである。

そもそも、海外の文学作品や映画のタイトルには個人名のみ、というのは結構ある。歴史上の人物を除いて思いつくのは、フルネームだけでもジョン・カーターとかジャッキー・ブラウンとか、アニー・ホールなどなど。えらく恣意的だが、時間をかければもっと指摘出来ると思う。

その点、日本では文学作品、それも森鴎外には歴史上の人物名をそのまま作品名にした小説は何点かあるが、夏目漱石には苗字なしの「三四郎」があるぐらいである(私は長いことあれが『姿三四郎』の原作だと思っていた)。その後の作品名にも歴史上の人物名は出てくるが、創造された人物名を題名にした小説や映画と言うのは、それこそ姿三四郎(これは皆が周知のモデル小説であったらしいが)以外は寡聞にして知らない。

これは「課長島耕作」あたりから、フィクションの中であっても少しずつフルネームで世間と対峙する主人公が存在感を主張するようになり、やがてその職名すら不要になるパラダイムチェンジが起こってきたのであろうか。

私もその末端にぶら下がっている団塊の世代に対する、あまり根拠があるとは思えない批判がその背後にあるように思われるのが少々気にはなるのだが、この日本で何らかのグローバルスタンダードな人と社会との関わりに関する変化が起こる兆しなのかな、と思わないでもない。

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