先月の10日に蜷川幸男演出の「唐版 滝の白糸」を見たばかりなのだが、あのよくわからなかった芝居が別の演出ならどうなるのか、というのに興味があった。横浜なので近いし、何より演じるのが「唐ゼミ」というマイナー劇団なのでチケットが安いというのも魅力。
唐十郎は数年前まで横浜国大の教授をしていたんだそうで、彼のゼミを母体として横浜を中心に活動しているのが劇団唐ゼミというわけ。マイナーながら、唐直系の由緒ある劇団といえる。今までの公演では唐十郎の戯曲だけを演じているようだ。まあ、当たり前か。
さて芝居そのものだが、ごく簡単に言うと「蜷川演出よりはよっぽど判りやすい」ということに尽きる。愚直に唐のセリフ回しを追い、唐の世界観を再現することに徹している。状況劇場時代の唐の盟友、大久保鷹が銀メガネを演じており、そもそも唐自身が大久保鷹をモデルにして銀メガネを造形したそうで、なるほど、この胡散臭さが狙いだったんだなと納得させられる。蜷川劇での同役、平幹二朗は名優だとは思うが、やはり胡散臭さに欠けるのである。
蜷川演出にはたっぷり用意されていた外連味に富む劇的スペクタクルは小ぶりであったが、怪しげな貧乏人同士の金をめぐるやりとりに発して、小人のプロレスに象徴される「異形の無秩序」対「秩序=体制」という対立を、血の水芸による戦いで突き崩すという唐の布置構造がそのまま素直に伝わってくる芝居であった。何故今これを演じるのか、という意図は正直言って分からない。唐十郎というある種の天才の、動態保存記念館を作る衝動みたいなものであろうか。
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