2014年9月21日日曜日

データの見えざる手

Facebookで評判になっていたので、時代遅れになってはイカンとこっそりAmazonで購入。小ぶりの本だったが読み終わるのに結構時間がかかった。と言うのも著者が理系バリバリの人で、統計力学の概念や数式がそこら中で使われており、そう言うのが出てくるたびにWikipediaなんかの解説を読まないとまるきり腑に落ちない内容であったからだ。

著者の矢野氏は早稲田から日立製作所に入社。1993年には「単一電子メモリの室温動作」に世界で始めて成功したのだそうだ。何のことかよく判らないが、多分すごいことなのだろう。ここ10年は「ウエアラブル技術とビッグデータ収集・活用で世界を牽引」してきた人だという(カッコ内は奥付から引用)。この本は後者の中身を素人に判りやすく解説する目的で書かれたものだと思うが、私ごときには判らない部分はやはり判らない。

矢野氏のチームはまず、腕時計状の加速度センサを使って被験者の動きを記録した。そうして一分間の腕の動きの回数とその出現頻度比率の関係を見たところ、比率を対数軸で表せばきれいに右肩下りの直線に乗ることを見出した。これは分子のブラウン運動を観測した時の結果と同じなんだそうで、統計力学ではボルツマン分布として知られるものであるそうな。

この辺りで私なんかは「は〜そうですか」と棒読み感想を述べるしかないが、著者によれば、これは人が自分の意志で自由に行動を決めていると考えているが、じつはマクロ的には我々の行動は普遍的な法則によって導かれている事を示しているという。ミクロ的意志や思いを知らずとも、マクロ的な人間行動の分析は可能であるとも。

私らの商売をしていると、ああ、新手の行動主義ですかと思ってしまうのがイカンところで、その後の著者の主張にもついつい疑いの眼をむけてしまうが、出だしの部分以後は至極判りやすい、個々の人々の動きから見た職場の効率分析の話になる。センサを首からぶら下げる名札にし、動きと位置、人々の相互関係を記録し、生産性との関連を見る。あるコールセンターの事例では、休み時間の賑やかさが案件処理効率と明らかな相関があった。

相関を見る時、事前に仮説を立てないのも重要らしく、大量のデータから相関を発見するのは日立が作ったデータ処理システム自身だそうである。著者たちはあるホームセンターでの分析で、販売従業員の立ち位置と売上の関連を見出したが、その最適位置というのは、およそ常識的に予測することが出来ないものであったという。

こうした客観的なデータに加え、質問紙法による主観的内容を組み合わせれば「幸せ」というものも測定できるのではないか、というのも著者の主張で、それによれば効率的に運営されている職場では従業員の幸せ自覚度は高く、その企業の生産性や収益性も高いのだそうである。労働者が幸せなら企業も儲かるということである。

日頃、青息吐息の経営状態の会社から、無理難題を押し付けられて不平不満に満ち満ちた生活を送っている人々(日○の社員も結構いるような…)の愚痴を散々聞かされている立場からは、それが本当ならいいねと心から思う。労働と幸福が同じことを意味する社会が実現するよう、著者のチームの今後のさらなる活躍を期待するものだ。

2014年8月27日水曜日

やがて消え行く我が身なら

本箱の片隅に忘れられていた池田清彦のエッセイ集、「やがて消え行く我が身なら」を発見。侘び寂びの極致かと思える題名は、秋雨のはしりのような冷たい雨の降る日に読むにはまことにふさわしいと数時間で読了。

ここのところ村上春樹ばかり読んでいて、赤裸々な性と生の描写にいささか辟易しかけていたのもあって、池田氏の軽妙というか、投げ遣りというか、面倒くささとやる気のなさが力強く伝わってくる文体に心安らぐものを感じてしまう。

氏は明石屋さんまが司会をやっている「ホンマでっか!TV」のメインコメンテーターをつとめておられるのでご存じの方も多いであろう。普段はTVをほとんど見ない私も、あの番組だけは3回に1回ほどは見ている。お目当ては池田氏その人。昔、この人の「構造主義生物学」という立場の著書をほとんど読みつくしたことがあるのだ。どんな風貌の人なのだろうと思っていたら、大滝秀治とほとんど区別がつかなかった。しゃべり方はまったく違いますが。

なかなかの特異的学究なのだが、どこか脱力したところのあるその学問的態度も好ましければ、私が自分なりに精神症状や対人関係病理を構造主義的に捉えようとしてきた努力をより一般的な立場から解説してくれているように感じたのがハマった原因。私の構造主義的精神医学は手抜き(効率的とも言う)臨床をすすめる上で実に役立ったが、ねっからの怠け者である私はまとまった形にして発表することは結局出来なかった。

さて、「やがて消えゆくー」の内容であるが、他人の権利を侵害しない限り、人は好きなことをする自由があり、国家や社会はそれを守る制度を作るべきだというリバタリアン(オバタリアンではない)としての池田氏の視点から、様々なことに触れたものとまとめるしかない。といっても彼の生物学者としての基本になっている虫取りの話とか、生と死についての話題が多いのは当然。

人はいずれ死ぬのだから、今日を面白く生きることに傾注しよう。金をためたり仕事をしたり、拳を振り上げて人に自分の情緒を吹き込んだりするヒマなんかないよ、という結論につながる話が最初から最後まで目白押しと思って頂ければいい。そもそも「面白い」とはどういうことかという疑問にも、たしか答えていたんではなかったかな。もちろん、そんなものは人それぞれなので、多少はぐらかされるのは致し方無いけれど。

2014年8月3日日曜日

1Q84

休日約3日を消費して村上春樹の”1Q84"を読み終える。なんで今頃5年前のベストセラーを読んだのかというと、アマゾンの古本コーナーで三冊セットが安く売られているのを見つけたと言う単純な理由。

私は村上春樹の絶大なファンと言うわけではないが、読めば確実に面白く、それなりに考えさせられるところ大な作品を生み出し続けている人だとは認識している。しかし社会現象的に売れる理由まではわからない。古本や文庫で安く買えれば読んでおこうと思う程度。

2009年にこの本が出た時、私は題名を”IQ84"だと勘違いし、やや低めに位置する知的能力のフイルタで見る世界の相貌といった趣向の小説なのだろうと勝手に決めていた。よく見れば一字目がIではなく1であった。活字のニュースだけ見ているととんでもない間違いをすることもある好例であろう。

”1Q84"には当然ジョージ・オーウェルのディストピア小説"1984"も下敷きになっているのだろう。ビッグ・ブラザーならぬリトル・ピープルなんてのが出てくるとこからもそう予想して読んでいったのだが、ユートピアを求める団体との関係が大きなモチーフになってはいるものの、それがメインのテーマではないようだ。

一言で言えば間違って入り込んでしまった世界からの脱出譚というパラレルワールド物SFだ、と言うのはあまりに乱暴なまとめになるが、その活劇ストーリーを追いながら個々のシーンでの村上春樹独特の洒落た文体と描写を楽しめたので、まあ充分以上の商品価値を与えてもらえたことになろうか。

疑問点を上げれば、なんで作者はそう必然性があるとも思えないのに、あれだけ克明なポルノ描写を重ねないといけないのだろうかという点。私のような純情老人見習い期をのほほんと過ごしている読者には、そこがいささか居心地の悪さを感じさせるところである。まさか、人がコソコソせずに堂々とポルノを読めると言う理由でベストセラーになったのではないだろうね。

2014年7月20日日曜日

抜け目のない未亡人

チケットが余ったからと、友人から只で提供してもらえる事になり、それも土曜日の夕方というグッドタイミング、遠慮もなく久々の観劇に出かけた週末である。

場所は新国立劇場。新宿駅から京王新線でひと駅の初台駅から専用通路があるというリッチな作り。箱物文化をバカにしてはいけません。便利さ故に早くつきすぎてしまい、劇場内のイタリアンレストランでまず夕食。

大層な名前がついた広いレストランなのだが、客がいない。悪い予感というか、デジャブ感にとらわれる。出てきた料理をひとくち食べて、あまりの不味さに思い出した。この劇場に来たのは二回目で、初めての時もこのレストランで食事をし、その不味さに辟易したのをころりと忘れていたのだった。

おのれの記憶力の衰えに悪態をつきつつ友人と落ち合い、劇場内へ。席は一回ホールの最後方だが広い舞台を見渡せる絶好の位置である。小劇場のテント芝居なんかでは席に収まること自体に多大の苦痛と困難があるものだが、さすが新国立劇場、座席も実に快適。

お芝居は18世紀イタリアの喜劇作家カルロ・ゴルドーニの作品をかの三谷幸喜がアレンジしたもので、18世紀のシチュエーション・コメディをどんな風に料理するのかが興味あるところ。昔々、ミラノ・ピッコロ座という劇団によるゴルドーニの芝居を観た時には(TVで観たんだけれど)、狂言廻しの要となる道化役、アルレッキーノ役者の身体能力に驚嘆したものだった。その時の驚きが幾らかは再体験できるかなという期待があったのだが、結果としては少々微妙であった。

夫を失ったばかりの美しい未亡人に4人の求婚者が恋の鞘当てを繰り広げ、未亡人も彼らの本心を知ろうとベネチア仮面舞踏会を利用して策略をつくすという元の話を、三谷はベネチア映画祭を舞台に、夫の死を期に再復帰を狙う往年の大女優(大竹しのぶ)と、4人の映画監督による勧誘合戦に置き換えている。判りやすくなって宜しいとも言えるが、翻案とはいえどうせ古典作品、不自然なところがあるのは仕方なく、なんだか違和感が残るのは致し方無い。

大女優や監督たちが泊まっているホテルの支配人代行のアルレッキーノを演じた八嶋智人は、八面六臂の活躍で物語を進めていくのだが、やはりピッコロ座の道化役者と比べてしまうので迫力に欠けると言わざるをえない。まああれだけ頑張ればよしとするべきか。細かなことはあれ、座席の快適さ、俳優陣の多彩さ、何よりチケットが只だったということが最大の理由で、まずまず楽しめた週末の夜だった。

2014年7月1日火曜日

誕生日

Googleの画面ロゴがまた変わっており、マウスオンしたら私への誕生日祝いのメッセージが出るようになっていた。そういえば昨年もこれに気がついてなにか書いたような気がする。

最近、日々そのものが過ぎていく感覚が何故か遅くなり、ましてや給料日が来るのはいつのことなんだと思わせるほど一ヶ月までは長いのだけれど、2〜3ヶ月ぐらいのまとまった時間になると、すぐに過ぎ去ってしまうという不思議な時間感覚にとらわれるようになった。ましてや一年なんかあっという間である。

歳を取れば時の過ぎるのが早くなるというのは誰もが言い、たしかに私もそう感じるのだが、短い時間に関しては逆に感じるようになったわけである。仕事場でふと暇になり、30分後に別のスケジュールがあるなんて時、どうその30分を潰すか困惑してしまうこともしばしば。

読みかけのミステリ小説をポケットに入れておくというのも一時やってみたが、あまり人前で堂々とやれることでもなく、そう面白い小説が沢山あるわけでもないので、すぐにネタ切れになってしまうのが欠点。「カラマーゾフの兄弟」でも読めばかなり時間潰しは出来そうだが、それはちょっとね。

とにかく、時間感覚の非直線化という奇妙な現象が、ボケや老人性精神障害の前兆でないことを祈りつつ、日々を何とか乗り切っていくしかない。多分あっという間に来年の今頃がやってきて、また同じようなことを書くことになるのだろう。それがとんでもない楽観だったのだと思うことにならないよう、ささやかな現状が維持されることを念じるしかない。

2014年6月23日月曜日

ジャガーの眼@新宿花園神社

昨日ははるばる新宿花園神社境内まで、唐十郎の「ジャガーの眼」を観に行く。演ずるのは金守珍率いる新宿梁山泊の面々。唐自身が主催していた状況劇場に長らく参加していた金が、当時の演技演出をある種のこだわりで再現をしようとする劇団である。

いままで3回ほどこの劇団の芝居は観てきて、ここで感想を書いたものもあるのだが、正直言って芝居自体に感服したと言うよりは、60年代に始まる小劇場運動のノスタルジアを感じ取るために観に行ったというのが本音。まあ、芝居自体は理屈抜きに面白いのだけれどね。役者も差はありつつもこの前に観た劇団よりはかなり上手。

今回は特に唐十郎の息子である大鶴義丹と異母妹である大鶴美仁音の共演というミーハーな興味もあり、日曜日の夕方というちょっと厳しい条件ながら観劇に望んだ次第。芝居そのものは1985年に初演されたもので、唐のライバルというか盟友というか、「天井桟敷」という劇団で唐と同時代を競った詩人にして演劇人、寺山修司の死後2年に唐が捧げた追悼演劇という形になっている。

とは言いつつ、どこが追悼であるのかは観ていてもさっぱり判らず、そういえば寺山修司好みのテーマ、美少女の人形とか、宝塚風男装の麗人などが出てきているのかなぁという程度。寺山の晩年、尿毒症による軽度意識混濁のせいなのか、街角で覗き行為をして逮捕されたという事件があり、この芝居の一連の主題になっている「特殊な視線を持つ眼」の前提になっているような気もしないでもない。あんまり「追悼」になっているようにも思えないのだけれど。

何であれ、自分たちの席の後ろの方には唐の元妻であり、大鶴義丹の母である李麗仙も発見出来たし、唐兄妹の共演も観られたしというわけで、唐十郎の正統追随者と彼の血族が醸しだす雰囲気にたっぷりと浸り、かってのアングラ小劇場のノルスタジアを再体験し抜くことが出来た日曜日の夜なのだった。

2014年6月2日月曜日

水族館劇場「嘆きの天使」

友人から一週間ほど前、水族館劇場という聞いたことのない劇団が三軒茶屋近くの神社の境内でテント公演をするから見に行かないかというお誘いがある。日曜日の夕方という日程に多少難点はあったものの、どうせすることもない身、ついていくことにした。

はじめに書いてしまうのだが、この劇団、出自は博多方面にあるらしい。それと関係があるのかないのか、とにかく時間感覚がのんびりしている。まず夕方5時半に集合して整理券を貰い、座席を確保する。芝居小屋周辺でプレイベントが始まるのがなんと7時。

お神楽みたいな出し物に始まり、芝居の中身のさわり部分がごちゃごちゃと繰り広げられ、やっと小屋に入場。実際に芝居が始まるのはほとんど8時である。舞台は10時頃には終わるのだが、何だか夕方から半日ずっと芝居に付き合っていた気分だった。

芝居の中身はというと、なんとこれが永山則夫を鎮魂する話なのである。いったい、この芝居を見に来た連中の何割が永山則夫を知っているだろう。手法は60年代後半以降のアングラ芝居の常套手段、種々のイメージの重ねあわせというやつ。時代や権力にまつろわぬ、漂泊の民の歴史の一コマとして永山の悲劇をかさね合わせていくのである。正直言って切り口に手垢がつきすぎていて今ひとつ。

その手垢を洗い落とす手段というわけなのであろうか、この劇団が用意したものは実に大掛かりな大道具。流れ落ちる水、吹き上がる水、水、水、水のオンパレードである。惜しむらくはそれが要所で時々無意味に溢れだすばかりで、余りイマジネーションを掻き立てる方向に繋がっていないのがまことに残念。

こんな無駄なことに(ゴメン)、命をかけて頑張っている人々がいるんだなぁ、ひょんなことから努力が報われるようなことになればいいのになぁと、そればかり念じながら深夜に帰宅し、疲れ果てて寝てしまった。それにしても、あれは噴水劇場ではあったが、水族館劇場ではなかったなというのが寝付く前の最後の感想。