2013年6月30日日曜日

渋滞の季節

日曜日だというのに朝から職場へ出かける。昼過ぎ用事を済ませて帰ってくれば海岸通りはすでに渋滞になっていた。これから二ヶ月ぐらいはこれが続くのを覚悟しないといけない。

バスなんか絶対時間どおりこないからね。停留所に「この季節は時刻表どおりには来ないから文句を言わないように」と断り書きが張り出されるぐらいで。

勿論、渋滞になる時間帯と方向はほぼ決まっているので、見当をつけて脇道に入ったり別ルートを迂回する選択があるといえばあるのだが、とにかくこの辺りは道が狭く、小型車に乗っていてもかなりの苦労をせまられる。

そんなところへハマーだのゲレンデヴァーゲンだのレンジローバーなんぞの超弩級車を乗り入れて来る人も多く、その上、引退して都会地から引っ越してきたから、運転経験が少ないと言う高年層が多く住む土地柄もあって、裏道や脇道はさらなる混乱を呈するのである。

地元の悠々自適年代の皆さん、歳をとったら軽自動車に乗りましょうね。許せる外車はミニクーパーまで。観光にいらっしゃる方々は江ノ電、小田急を使いましょう。フォトジェニックだと自覚される方が、MGなんかで格好よく通り過ぎるのは問題ございません。




2013年6月28日金曜日

サングラス型コンピュータ

やたらに近未来的なサングラス型端末。Google glassと同じようなものだが、多少洗練されているようにも見える。センサーやネットとどう繋がっているのかがよく判らないけれど。

私は10年ちょっと前までトライアスロンに凝りまくり、年に2回は海外レースに出場するという無茶を続けていた。お陰で心臓を痛めてしまい、スポーツは体に悪いという見本になってしまった。あの頃の体力を取り戻せるなら、魂の一つや二つは悪魔に売り渡してもいいと思うのだが、あいにく買ってくれる悪魔がいないので売買が成立しない。

あの頃からトライアスリートはハイテク好みだった。その時代に手に入る最高の技術製品を殆どの人が取り入れていたんではないかしら。さすがにHUDに現在地を表示するようなものはなかったが、心拍やケイデンス(クランクの回転数)や速度、積算距離を表示するアイテムはみな利用していた。ハンドルバーに付いているサイクルコンピュータを見れば済むことをHUD表示してメリットあるのかなと思わないでもないが、そのへんはやはり気分というものであろう。

海沿いの平坦地でもいいから、またロードレーサーで疾駆してみたいものだと真剣に思う。体調が許せば、というよりせめて10kg減量できたらの話ではあるが。HUD端末の方は…、老眼が進んでいるからどうせ役に立たないような気がする。最新技術が年寄りを考慮してくれていることはあまりないもので。


2013年6月27日木曜日

半日ドック

今日は本来なら「研修日」と言う名の平日休みなのに、関連病院で半日ドックなるものを受けよとの人事部からの仰せ。高齢職員は普通の職員検診ではなく、別枠でタップリと検査を用意するとのことである。

正直言うと、私は健康診断なるものに意義を見出せない立場である。ガソリンスタンドでボンネットを開けろと言われて点検してもらうと、オイルを入れ替えろ、水抜き剤を入れろなどと、いい商売のカモにされてしまうが、あれと健診はほぼ同じコンセプトだと思えるのである。

それに年に一度や二度適当な医学的検査をして仮に病的初見がなかったからといって、それが健康を意味する訳がないとも考えている。健康とはもっと前向きに、自らが主体的に勝ち取っていくもので、医療機関からお墨付きをもらうようなものではないと。だから40代過ぎ頃までは健診はすべてサボっていた。

10年ぐらい前からは仕方なしというか、いい年寄りが勝手なことも言ってられないだろうと嫌々ながらに健診を受けるようになった。少なくとも企業健診というものは医学医療の理念に関わる問題というより、職員を半病人に仕立てるようなことはしていないぞと言う、企業側の人事管理姿勢の問題なのだということを達観したから、とも言える。

とは言いつつ、やはり引っ掛かり感は残る。大体、「ドック」という言葉からして気に入らない。船がドックに入れば検査もするが、それ以上に様々な保守作業も施されるわけである。人間の場合、別に保守作業があるわけでもなく、負担のかかる検査が続くばかり。異常が見つかればかかりつけ医の所で結局同じ検査をするわけで、医療資源の無駄遣い以外の何物でも…。

いやいや、そういう見方はやめにしたのだった。おとなしく半日の苦行に耐え、義務を果たした自分へのご褒美に昼過ぎからワインでも、と瞬間考えたがそれもやめ、掃除と洗濯の休日メニューを黙々とこなしたのだった。でも、便潜血検体に猫の糞を持っていくぐらいのサボタージュは図るべきだったなと、多少の悔いが残らないでもない。


2013年6月26日水曜日

月に向かって小便

大学時代の友人がフランドル旅行に行ってきたとかで、おみやげにとアントワープのマイヤー・ヴァン・デン・ベルグ美術館で買ったメモ帳を送ってきてくれた。

親父のほうのブリューゲルが書いた「十二の諺」の一つを表紙にしたものである。三日月に小便をひっかけているオヤジの後ろ姿で、向こうにはそういう諺があったのだろうが、そこまでは説明されていない。

気になったのでこの絵について検索してみたが、オランダ語以外の記述は見つからず、そのオランダ語の説明も12枚の絵を網羅するようなものはなく、通り一遍の短いものばかりだった。

もしやと思って有名な「ネーデルランドの諺」をみると、まさしくこの絵と同じモチーフが描かれていた。手前の家の真ん中の屋根裏部屋から、看板になっている三日月に向かって小便をしている男を見ることが出来る。

日本語の手の込んだ解説ページもちゃんと準備されていて、それによると「月に向かい小便」というのは、野心ばかり大きくても成功しないと言う意味なんだそうだ。まじめにメモをとる態度など生涯ついに身につかず、その場限りの思いつきで人生を夜郎自大に過ごしてきた私に対する戒めとして、親切な友人が送ってくれたに違いない。有りがたく頂戴して地道な生き方に邁進するよすがとしようと思う。もう遅いけど。

2013年6月25日火曜日

卓上浅漬容器

アマゾンで買った卓上浅漬容器が中々の使い勝手があるので紹介。よくスプリングの力で浅漬を作る道具、なんてのを売っているが今ひとつ景色がわるく、ましてそう使い易いものでもないので台所の片隅でゴミになる日を待つだけになるのものだが、こいつはそうでもない。

中蓋が重しになっていて、好みの野菜を軽く塩もみしてからこれに入れて冷蔵庫で保管するだけ。勿論、酢やハーブを使って簡易ピクルス風にしてもいい。

写真では分かりにくいが、今のところは一個58円の蕪を薄切りにしてクレージーソルトでさっと塩もみして漬けてある。二時間もすれば水が蓋まで上がってきて、蕪の浅漬けが完成している。まあ、栄養としては食物繊維ぐらいで大したことはないのだが、そこは気分というもの。簡易サラダがレパートリーに加わり、ちょっと豊かな食生活をしている気分になる。

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2013年6月24日月曜日

蜂工場

本棚の奥の方に横積みになっていたイアン・バンクスのデビュー作、「蜂工場」を発見。20年以上昔に買っていたはずだが読んだ覚えがない。

イアン・バンクスは1980年代中頃にこの作品でニューホラーの旗手としてデビューした作家。それだけにとどまらず、ミステリーやSF作家としても知られる。と言っても私がそう詳しいわけではなく、これらは数日前にネットで調べたもの。ついでに判ったことは、彼がつい先日(2013年6月9日)胆嚢癌で死んでいたこと。諸行無常であることよ。

たしかこれを買ったのは彼のミステリ、「共鳴」が結構面白かったので買い揃えたのだと思う。彼のSF「ゲーム・プレイヤー」もそこそこ面白かった記憶がある。それでもなぜこのデビュー作を読まなかったのだろうか。それが気になって日曜日を潰して一気に読んでみる。

スコットランドの小島に元ヒッピーの父と二人で暮らす16歳のフランクが主人公。彼は出生届も出されず、学校にも行かず、社会的には存在しない者として育てられた。幼い頃飼い犬にペニスを食いちぎられ、理想の男性になることを諦めざるをえなかった彼は、島に住む小動物を残虐になぶり殺して日常を過ごしていた。そこにある日、将来を嘱望された医学生だったが発狂して精神病院に収容されていた兄から電話がかかってくる。「病院を抜けだした。今から帰る」と。

ニューホラーと言えばこれ以上無いホラーの雰囲気で始まる物語なのだが、動物の虐殺やら、もっと幼い頃にフランクが手を染めた三件の殺人-偶然や彼が子供であることを巧みに利用した完全犯罪-などの記述がいかにもアングロサクソンっぽい気色悪さで、読み進むのが少々苦痛に近い。表紙には「結末は誰にも話さないでください」と書いてあって、一体どんな結末なのだろうという期待だけで読んで行った。

その結果、まあ確かに驚天動地と言えば言える結末に至り、彼のやってきた残虐行為にもそれなりに説明がつく仕掛けにはなっているのである。しかし正直言って肩透かし感は否めない。リアリティの面でもかなり問題がある。わざわざ買い揃えてこれだけ読んでいなかったのは、あまりといえばあまりなこの結末を予測したからだろうか。それとも私の脳みそが拒否反応を起こし、読んではいたが読まなかったことにしてしまったのか。

もはや誰も問題にもしない小説について何を言っても仕方がないとは思うが、通俗文学の愛好者としては、自分の時間の多大な部分を浪費して読んできた行為の無意味さを思い知らされたような体験だった。これこそこの「ニューホラー」作品の狙いだったのかもしれない。



2013年6月23日日曜日

ブログ再開

何年か前までブログっぽい雑文サイトを作っていたことがあるんだけど、ある時データクラッシュしてしまい、なんとなくバカバカしくなってやめてしまった。

ちょうどその頃色々あって、職場と自宅を往復するだけ、同居人は猫だけと言う生活になってしまい、書くこともないというのが実のところだったかもしれない。

だんだん歳を取り、毎日何をやっているのか記憶も定かで無いという事が多くなり、以前のブログもどきにも記憶管理の意味があったんだなと思うようになる。一応twitterやface bookのアカウントはあって、特に後者は友人や家族との接触には重宝しているのだが、やはり生活の記録というのとは違う。twitterなんぞ、全くその意義も理解できず放置したまま。

そういう訳で、記憶力低下や自発性低下が著明なここ最近、自分の状態を記録するのも悪くなかろうとまたブログを始めることにする。おそらく他人が読む価値など全くないものになるのは間違いない。自分のノートにでも手書きしろよと思われるだろうが、もしかしたら他人が読むかもしれないという緊張感は、文章をまとめる時、結構な刺激になるのも事実なので。

16歳になった我が家のお姫様、黒猫ノエルが天寿を全うするまで続けてみるつもり。こちらが先にアウトになるかもしれないが。