2013年10月31日木曜日

Quizás, quizás, quizás


散髪屋に行って店内に流れるラジオ放送を聞いていたら、ラテンのスタンダード、キサス・キサス・キサスがかかっていた。

驚いたことに、今日はなんとスペイン語の歌詞の意味が大体分かるのである。不実な恋人に何をたずねても、いい加減に多分ね、としか答えてくれないもどかしさを歌っているということが、日本語に逐語訳するのではなく、スペイン語そのものの意味として受け取れた。

日本人なら誰でも「明日食わんぞ」と聞いてしまう有名なくだりも、普通に¿Hasta cuándo?と聞ける。何時になったら(貴女の本当の気持ちを明かしてくれるのか)ということだろう。YouTubeにナット・キング・コールのキサス・キサス・キサスがあったので拝借。字幕は残念ながら出ない。

実は半年前からロゼッタストーンという語学学習PCソフトで、中国語とスペイン語を練習している。そう意味はないのだが、ボケ防止になるかなと思ったのが主な理由。ロゼッタストーンの学習法はとにかく状況を示す写真を見ながら短文を読んで発音する、もしくは、ネイティブの発音を聞いて正しい文例を選択することを繰り返す。時々書き取りの問題も出る。辞書は引かず、文法解説もない。

スペイン語の場合なんか、動詞変化を体系的に覚えることもないが、何度か読み取り、聞き取りを繰り返しているうちにpensandoとかcontestandoみたいにandoがついてる奴は進行形らしいというようなことがだんだん判ってくる仕組み。それでもseとかの再帰代名詞っぽいのがどんな場合につくのか、なんてことは皆目わからない。ただ用例を重ねるしかない。ソフトだけでは語彙が足らないのも致し方ない。

それでも、今まで不分明な音声の塊として聞いていた歌詞が、ちゃんとした言語として聞き取れる体験をもたらしてくれたわけで、そこそこの効果はあったことになる。意味が発見できるというのは、どんなことであれ、なかなかの喜びが得られることだと再認識した。実用的レベルに達するかどうかはそれこそQuizás, quizás, quizás。

2013年10月27日日曜日

OSアップデート悲喜こもごも

職場に持ち込んで使っているウインドウズマシンをWin8.1にアップデートしたのが、10日ほど前。スタートボタンが加わった事以外、どこが違うのかよくわからなかったが、なんとなく使いやすくなったような気がしていた。

そうしたら昨日になって、「ウィンドウズを自己修復出来なかったので、起動しないよ」と言うようなメッセージが出て固まっているのを発見。何度も再起動してみるが途中で動かなくなってしまう。XPマシンに7をつぎあてし、後はダウンロードした格安8でアップデートし、さらに無料ダウンロードで8.1にしたので、DVDで起動させて修復というのも無理。

えーい、これ以上金を掛けるのも業腹だ、Ubuntuにしてしまえと持っていたISOイメージDVDから起動させようとするとそれも出来ない。どうもハードレベルでイカれてしまっているようだ。マシン自体は数年前の自家製で、CPUはペンチアム4と言うシロモノだからなぁ。多分、win8.1をぶん回すのに負担がかかりすぎ、どこかが動作不良になったのだろう。

諦めてCPUとマザーボードを買い換え、おとなしくUbuntuでも使っていようかと考えている。最近老眼が進んだので、PC組み立てみたいな細かな作業はきついんだよね。日曜日にわざわざ職場に出かけて修理作業を試みた結果がこれだったので、いささか意気消沈。

自宅に帰ってからはMacをLionからMavericksにアップデート。8.1も無料、こちらも無料なので、ちょっと不安があったがタダの魅力には勝てない。しかし不安は的中。再起動したら今度はローマ字が滅茶苦茶になって文章が打てない。なんだかわからずあれこれ試行錯誤の結果、キーボード配列がフランス語に固定されているのが判明。フランス語配列を削除しようとしても何故か出来ない。

仕方なく忸怩たる思いでサポートセンターに電話。「別のユーザーを作ってそこで同じ現象が起こるかお試しになられては」と言う提案。testユーザーで確かめるとちゃんと普通の配列になっている。しかも、自分のユーザーアカウントに戻ると、そこももとに戻っている。訳がわからないが、Macにはこの程度の謎はつきものなので、治ればよしとしておくしかない。

そんなわけでWindowsとOSX、二つのOSアップデートに振り回された週末だった。しかも片一方はまだ解決していない。悲喜こもごもと書いたけれど、喜はどこにもなかったなと今気づいたところ。

2013年10月22日火曜日

Famous Lookalike

 オスカー・ワイルドとヒュー・グラント、ショーペンハウエルとジョニー・デップは確かに似ているという新たな知見をもたらしてくれたブログを発見。

73組のそっくりさんが対になっているのだが、残念なことに大半は「二人とも知らない」。

チャールズ・ラムとマイケル・フェルプス
なんて確かにそっくりなんだが誰なんだそれ、という感じ。

少なくとも片一方は知っているというのも多いので、秋の夜長、検索サイト相手に時間つぶしするのには最適のサイトかもしれない。

そっくりさんというより、たまたま同じような表情を作った瞬間を捉えて並べたというのも多そう。例:ヘンリー・フォードとスティーブ・マーチン。

パットン将軍とドナルド・トランプというのがあったが、頂上を極めるとみんな同じような顔になるんですなぁ。個人的にはパットン将軍のかぶっている将軍用ヘルメットがかなり気に入った。

スチーブ・ブシェミと草野大吾が入っていなかったので、評価は一寸減点。

2013年10月18日金曜日

五木寛之の講演会

神奈川県はソフトとハード、二重の精神科救急網を完備していると自称している。実際、そこそこ機能しているので、自称などという言い方は失礼なのは判るのだが、どことなくぎこちないのは事実である。

ソフトというのは、急な病状悪化が見られる患者さんが受診したが、ベッドの空きがないというような場合。県精神科救急受付というところに電話すればいいことになっているが、これは夜間だけ機能することになっている。日中なら不安定な患者さんを抱えた医療機関が自力で受け入れ先を探すことになる。

ハードというのは病状悪化のため何らかの事件を起こしてしまい、警察に保護されているというような場合。いわゆる措置入院申請が警察官、検察官から出されている場合で、神奈川ではこれを精神病院協会加盟の病院が輪番で受け入れる体制を作った。県がいくばくかの補助金を出し、輪番病院に人を確保してベッドを開けておくためのお金を配分するわけである。

この制度は案外うまく機能しており、まず金の流れを先に考えたことの利点に感心させられる。今は他の都府県でも同じなのかもしれないが、少なくとも今まで私が在籍したあちこちの病院所在地では、あまりスマートではない受け入れ交渉をしていたものだった。

精神病院協会を基本組織としたのも秀逸である。40年ぐらい前、かの武見太郎元医師会会長をして「牧畜業者」と揶揄させた私立精神科単科病院の既得権防衛組織だった団体である。様々な自己改革もあり当時とはぜんぜん違うのだが、やはりそこは自らの存続を第一に考えるしかないのは致し方無い。一定の金銭的メリットを与えつつ、社会的セルフエスティームも付与する制度を考えた人は本当に偉い。

問題は、そのハード救急システムに関与しようとすると、その精神科病院協会に加盟しないといけないことで、私の職場のように総合病院の中に付録のように付いている精神科治療ユニットの場合、結局私が代表としてそこの活動に関与しないといけなくなってしまう。出来れば何もしないで給料泥棒に徹したい私としては実にまずい展開である。

今日はその県精神病院協会の50周年記念式典とのこと。致し方なく慣れないスーツ姿で会場に赴く。式典の後は記念講演があり、それが何故か作家の五木寛之氏によるものであった。五木氏には「凍河」という神奈川県の精神病院を舞台にした小説があり、映画やTVドラマにもなっているので、その辺の関連なのかなと思っていたが、それは全く紹介でも触れられず、本人も語らなかった。小説のモデル病院の故院長、昔は懇意にしていたので後で偉そうに吹聴できるかと思ってたのに。

五木氏は「悲しみの効用」と題して、抑うつが日本社会の基本的問題のように議論され、また実際それをいかにして排除するのかという問題提起ばかりが優先しているが、悲しみや憂いを人の基本的あり方とする文化を自分たちが持っていたことを忘れないようにしないといけない、というような内容の講演をされたように思う。

ポルトガルのファドとか、アメリカのブルースなんかをその議論の傍証にするのはさすがに五木氏ならでは。日本では大正中期ごろまで、「暗愁」という言葉が生きていたんだそうで、ポジティヴな思考の背景に、このような一種のネガティヴ感情が縁取られているからこそ、我々の生がより豊かになりうるという発想をするべきではないかという提起は、実に示唆に富むものだと思えた。

まあ私なんか、どうせ20年もしないうちに死ぬんだし、自分が手に入れて満足だと思っているものもそのうち無くなる運命なんだから、今やれることをやるしかないと、いつも念じながら生きておりますが。それにしても、職場で「五木ひろしの公演を観に早引けした」と言われてないか、それが一番心配。

2013年10月11日金曜日

野球クイズ

アメリカのいくつかの新聞に配信されている有名雑学なんでも質問コラム"The Straight Dope"(これはセシル・アダムズという物知りおじさんが読者の難問に応えると言う形式を取っている)の過去記事に載っていた野球ルールクイズ。

「あるチームが1イニングに7人のバッターを打席に送ったが、結局1点も取れなかった。これはどんな場合に起こるのだろうか。私はノーアウト満塁、2人続けてポップフライ、次の打者がホームラン、そして次の打者がアウトになった時、ホームラン打者が1塁ベースを踏んでいなかったという相手チームのアピールでホームラン無効、無得点というのを考えたのだが違うのだろうか。セシルおじさん、教えて!」

それに対するセシル・アダムズの答え。

まず第一に、代打のことは考えないと言う前提が必要。1イニング中、代打はベンチ登録されている範囲で何人でも出すことが出来る。ホームランの場合だけを考えているのは偉いが、一寸考えが足らない。野球規則には、ホームランの無効アピールは、次の打者が打席に立ち、ピッチャーがそれに対峙した時のみ可能と書かれている。

だから正しい答えは、2アウト満塁(ここまでに打者は5人)、次の打者がホームランを打つものの一塁ベースを踏み忘れてダイアモンドを一周する。そしてその次の打者が打席に入った時、ピッチャーがアンパイアにボールを要求して一塁に送球し、その段階で前打者はアウト、無得点でチェンジ。そして打者7人で無得点という記録が達成されるということになる。お判りか?(以下、彼の得意のトリビアが開陳される)

昔、長嶋選手がベース踏み忘れてホームランでアウトになっていたが、こんな手続きだったんだろうか。あまりに昔のことで忘れてしまった。今は野球なんか見なくなってしまったが、こういうクイズなら今でも面白い。

2013年10月10日木曜日

唐版「滝の白糸」観劇

昨夜は渋谷シアターコクーンに唐版「滝の白糸」を観に友人達とお出かけ。都心に出かけるだけで疲れてしまい、観劇の後の感想会の飲み過ぎもあったのか、今日は1日臥せっておりました。

滝の白糸は1975年に書かれたもので、一応唐十郎の初期傑作のひとつと言われている。簡単にあらすじを、と思ったのだがそういう風にまとめるには少々困難な作品である。要はなんだかわからないわけ。

舞台の上にはほとんど崩れかかった無人の路地奥の街角が結構リアルに再現されており、すべての話はこの場で進行する。一人の青年が現れ、彼の後をつけていく怪しげなオッサンとのやりとりで芝居は始まる。

10年前、子供だった青年アリダはつけてきた男、銀メガネに誘拐されかけた過去があるらしい。銀メガネは捕まり、つい最近刑務所から出てきたばかり。一方のアリダはこの街角に住んでいて一年前に自殺した兄の同棲相手から、貸していた金を返すようにと呼び出されていた。

こういう設定から始まるストーリーがあることはあるのだが、実際の劇中のセリフはとりとめなくあちらこちらに散らばり、隠喩と換喩のオンパレードが続く。一体この話をどう収拾させるのかと心配してしまう程。結局、兄の同棲相手のお甲が、水芸芸人の白糸太夫でもあるという強引な力技設定で、最後は吹き出す血の水芸となってフィナーレ。

筋書きが進行するのが目的ではなく、その場面場面で劇的スペクタクルが展開されていけばいいというのが唐の、そして今回の演出者、蜷川幸雄の考えなのだろう。お甲の元宝塚女優とアリダの役者が、舞台俳優としては今ひとつという限界を抱えながらも、作家と演出家の狙いはある程度成功しているように私には思えた。

しかしながら、最後の場面で何故か「ワルキューレの騎行」が効果音楽として使われており、その断片の音楽に芝居全体が完全に負けている。唐十郎と蜷川幸雄が束になっても、ワーグナーのイメージ喚起力にはかなわないらしいと、一寸寂しくなって劇場を後にしたのだった。

2013年10月3日木曜日

Starman

この楽曲は1970年代初頭、デビッド・ボウイのアルバム「ジギー・スターダスト」に収録されている「スターマン」を、当時のゴスペル・ソウルグループ、"Milky Edwards & The Chamberlings"がカバーした稀少品としてYouTubeにアップされているモノ。

他にも二曲、同じボウイのアルバムの曲が昨年の二月にアップされている。いわゆるモータウン風の黒っぽい雰囲気に編曲されていて、ボウイの話題作カバーだとは気が付かないほどの見事な作りである。

デビッド・ボウイにもソウル・ミュージックにも興味が無い人なら(実は私もそうなのだが)、はぁそうですかで終わる話だが、一番の問題は"Milky Edwards & The Chamberlings"と言うグループが存在したことはないということなのである。

YouTubeには一寸古ぼけた紙ジャケットが写っているが、こちらのサイトの考察によれば、このデザインからして、ダイアナ・ロス&シュープリームスのレフレクションのパクリで、しかも題字はフォトショップ加工されている可能性が高いらしい。

ボーカルの声質がモータウン系と言うよりはトム・ジョーンズみたいだが、曲の作りはとても素人には無理と思えるもので、なんでここまで手のかかるイタズラをするのか、ちょっとその意を図り難い。これを作った人のサイトと思えるものもあるのだが、曲の作りとは裏腹にテキトーなもので、ますます疑問は深まるばかりなのである。