2013年10月10日木曜日

唐版「滝の白糸」観劇

昨夜は渋谷シアターコクーンに唐版「滝の白糸」を観に友人達とお出かけ。都心に出かけるだけで疲れてしまい、観劇の後の感想会の飲み過ぎもあったのか、今日は1日臥せっておりました。

滝の白糸は1975年に書かれたもので、一応唐十郎の初期傑作のひとつと言われている。簡単にあらすじを、と思ったのだがそういう風にまとめるには少々困難な作品である。要はなんだかわからないわけ。

舞台の上にはほとんど崩れかかった無人の路地奥の街角が結構リアルに再現されており、すべての話はこの場で進行する。一人の青年が現れ、彼の後をつけていく怪しげなオッサンとのやりとりで芝居は始まる。

10年前、子供だった青年アリダはつけてきた男、銀メガネに誘拐されかけた過去があるらしい。銀メガネは捕まり、つい最近刑務所から出てきたばかり。一方のアリダはこの街角に住んでいて一年前に自殺した兄の同棲相手から、貸していた金を返すようにと呼び出されていた。

こういう設定から始まるストーリーがあることはあるのだが、実際の劇中のセリフはとりとめなくあちらこちらに散らばり、隠喩と換喩のオンパレードが続く。一体この話をどう収拾させるのかと心配してしまう程。結局、兄の同棲相手のお甲が、水芸芸人の白糸太夫でもあるという強引な力技設定で、最後は吹き出す血の水芸となってフィナーレ。

筋書きが進行するのが目的ではなく、その場面場面で劇的スペクタクルが展開されていけばいいというのが唐の、そして今回の演出者、蜷川幸雄の考えなのだろう。お甲の元宝塚女優とアリダの役者が、舞台俳優としては今ひとつという限界を抱えながらも、作家と演出家の狙いはある程度成功しているように私には思えた。

しかしながら、最後の場面で何故か「ワルキューレの騎行」が効果音楽として使われており、その断片の音楽に芝居全体が完全に負けている。唐十郎と蜷川幸雄が束になっても、ワーグナーのイメージ喚起力にはかなわないらしいと、一寸寂しくなって劇場を後にしたのだった。

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