昨日ははるばる新宿花園神社境内まで、唐十郎の「ジャガーの眼」を観に行く。演ずるのは金守珍率いる新宿梁山泊の面々。唐自身が主催していた状況劇場に長らく参加していた金が、当時の演技演出をある種のこだわりで再現をしようとする劇団である。
いままで3回ほどこの劇団の芝居は観てきて、ここで感想を書いたものもあるのだが、正直言って芝居自体に感服したと言うよりは、60年代に始まる小劇場運動のノスタルジアを感じ取るために観に行ったというのが本音。まあ、芝居自体は理屈抜きに面白いのだけれどね。役者も差はありつつもこの前に観た劇団よりはかなり上手。
今回は特に唐十郎の息子である大鶴義丹と異母妹である大鶴美仁音の共演というミーハーな興味もあり、日曜日の夕方というちょっと厳しい条件ながら観劇に望んだ次第。芝居そのものは1985年に初演されたもので、唐のライバルというか盟友というか、「天井桟敷」という劇団で唐と同時代を競った詩人にして演劇人、寺山修司の死後2年に唐が捧げた追悼演劇という形になっている。
とは言いつつ、どこが追悼であるのかは観ていてもさっぱり判らず、そういえば寺山修司好みのテーマ、美少女の人形とか、宝塚風男装の麗人などが出てきているのかなぁという程度。寺山の晩年、尿毒症による軽度意識混濁のせいなのか、街角で覗き行為をして逮捕されたという事件があり、この芝居の一連の主題になっている「特殊な視線を持つ眼」の前提になっているような気もしないでもない。あんまり「追悼」になっているようにも思えないのだけれど。
何であれ、自分たちの席の後ろの方には唐の元妻であり、大鶴義丹の母である李麗仙も発見出来たし、唐兄妹の共演も観られたしというわけで、唐十郎の正統追随者と彼の血族が醸しだす雰囲気にたっぷりと浸り、かってのアングラ小劇場のノルスタジアを再体験し抜くことが出来た日曜日の夜なのだった。
2014年6月23日月曜日
2014年6月2日月曜日
水族館劇場「嘆きの天使」
友人から一週間ほど前、水族館劇場という聞いたことのない劇団が三軒茶屋近くの神社の境内でテント公演をするから見に行かないかというお誘いがある。日曜日の夕方という日程に多少難点はあったものの、どうせすることもない身、ついていくことにした。
はじめに書いてしまうのだが、この劇団、出自は博多方面にあるらしい。それと関係があるのかないのか、とにかく時間感覚がのんびりしている。まず夕方5時半に集合して整理券を貰い、座席を確保する。芝居小屋周辺でプレイベントが始まるのがなんと7時。
お神楽みたいな出し物に始まり、芝居の中身のさわり部分がごちゃごちゃと繰り広げられ、やっと小屋に入場。実際に芝居が始まるのはほとんど8時である。舞台は10時頃には終わるのだが、何だか夕方から半日ずっと芝居に付き合っていた気分だった。
芝居の中身はというと、なんとこれが永山則夫を鎮魂する話なのである。いったい、この芝居を見に来た連中の何割が永山則夫を知っているだろう。手法は60年代後半以降のアングラ芝居の常套手段、種々のイメージの重ねあわせというやつ。時代や権力にまつろわぬ、漂泊の民の歴史の一コマとして永山の悲劇をかさね合わせていくのである。正直言って切り口に手垢がつきすぎていて今ひとつ。
その手垢を洗い落とす手段というわけなのであろうか、この劇団が用意したものは実に大掛かりな大道具。流れ落ちる水、吹き上がる水、水、水、水のオンパレードである。惜しむらくはそれが要所で時々無意味に溢れだすばかりで、余りイマジネーションを掻き立てる方向に繋がっていないのがまことに残念。
こんな無駄なことに(ゴメン)、命をかけて頑張っている人々がいるんだなぁ、ひょんなことから努力が報われるようなことになればいいのになぁと、そればかり念じながら深夜に帰宅し、疲れ果てて寝てしまった。それにしても、あれは噴水劇場ではあったが、水族館劇場ではなかったなというのが寝付く前の最後の感想。
はじめに書いてしまうのだが、この劇団、出自は博多方面にあるらしい。それと関係があるのかないのか、とにかく時間感覚がのんびりしている。まず夕方5時半に集合して整理券を貰い、座席を確保する。芝居小屋周辺でプレイベントが始まるのがなんと7時。
お神楽みたいな出し物に始まり、芝居の中身のさわり部分がごちゃごちゃと繰り広げられ、やっと小屋に入場。実際に芝居が始まるのはほとんど8時である。舞台は10時頃には終わるのだが、何だか夕方から半日ずっと芝居に付き合っていた気分だった。
芝居の中身はというと、なんとこれが永山則夫を鎮魂する話なのである。いったい、この芝居を見に来た連中の何割が永山則夫を知っているだろう。手法は60年代後半以降のアングラ芝居の常套手段、種々のイメージの重ねあわせというやつ。時代や権力にまつろわぬ、漂泊の民の歴史の一コマとして永山の悲劇をかさね合わせていくのである。正直言って切り口に手垢がつきすぎていて今ひとつ。
その手垢を洗い落とす手段というわけなのであろうか、この劇団が用意したものは実に大掛かりな大道具。流れ落ちる水、吹き上がる水、水、水、水のオンパレードである。惜しむらくはそれが要所で時々無意味に溢れだすばかりで、余りイマジネーションを掻き立てる方向に繋がっていないのがまことに残念。
こんな無駄なことに(ゴメン)、命をかけて頑張っている人々がいるんだなぁ、ひょんなことから努力が報われるようなことになればいいのになぁと、そればかり念じながら深夜に帰宅し、疲れ果てて寝てしまった。それにしても、あれは噴水劇場ではあったが、水族館劇場ではなかったなというのが寝付く前の最後の感想。
2014年5月6日火曜日
夜毎に石の橋の下で
連休は結局近くのスーパーに買い物に出かける程度でほとんど家に籠って読書三昧。まだ出しっぱなしだったコタツを片付けるという大作業もするにはしたが、皮肉にもその直後から低気温の日が続いたのには参った。ダウンジャケットでは暑いし、フリースでは頼りないし、まことに過ごしにくい連休だった。
今回の読書テーマはヨーロッパ。何だと言ってはフランドルあたりから東欧の辺りを彷徨うのが好きな友人が薦めてくれた19世紀末プラハ出身の幻想作家、レオ・ペルッツの作品が3冊。それと以前に同じ人から薦められながら放り出したままだったW.G.ゼーベルトというノーベル賞候補を噂されながら早世した作家の作品が一冊。さすがに4日もあったので何とか読めた。
さてまずレオ・ペルッツの「夜毎に石の橋の下で」から話を始めたい。時は16世紀末。所は神聖ローマ帝国の当時の首都プラハ。私は受験で世界史を選択しなかったのであまり真面目に授業を受けておらず、神聖ローマ帝国については、教師が「神聖でなく、ローマでもなく、ましてや帝国ですらない」と言っていたのしか覚えていない。とにかく諸侯の力関係でいつもゴタゴタしていた国だったようですな。首都もあっちに行ったりこっちに来たり。
アルチンボルドという画家が野菜や果物で肖像画を描いたので有名なルードヴィッヒ二世が統治していた時期が、ちょうどこの小説で書かれている時期と重なる。皇帝は統治能力に乏しいというか余り関心がなく、もっぱら美術品蒐集に関心を向けており、宮廷の財政は火の車となっていた。そのためか皇帝は魔術と錬金術に解決を求め、怪しげな詐欺師紛いの人物が宮廷に出入りしていた。(中にはケプラーとかティコ・ブラーエみたいな本物の科学者もいたけど)
ある日、皇帝は街で美しい女性と出会う。それがユダヤの豪商モルデカイ・マイスルの妻である事を知った皇帝は、高徳のラビにとりなしを強要する。ユダヤ人のプラハからの追放の脅しに屈したラビは、彼らが夢の中で逢瀬を重ねられるべく幻術を手配する。しかし、それが神の怒りに触れ、ユダヤ人街には子供たちだけが斃れるペストが蔓延することとなる…。
軽いタッチのコメディかと思って読み始めると、予言とその成就、運命とそれへの対峙の物語として、したたかなボディブローを喰らう一品。やはりヨーロッパ侮りがたし。
今回の読書テーマはヨーロッパ。何だと言ってはフランドルあたりから東欧の辺りを彷徨うのが好きな友人が薦めてくれた19世紀末プラハ出身の幻想作家、レオ・ペルッツの作品が3冊。それと以前に同じ人から薦められながら放り出したままだったW.G.ゼーベルトというノーベル賞候補を噂されながら早世した作家の作品が一冊。さすがに4日もあったので何とか読めた。
さてまずレオ・ペルッツの「夜毎に石の橋の下で」から話を始めたい。時は16世紀末。所は神聖ローマ帝国の当時の首都プラハ。私は受験で世界史を選択しなかったのであまり真面目に授業を受けておらず、神聖ローマ帝国については、教師が「神聖でなく、ローマでもなく、ましてや帝国ですらない」と言っていたのしか覚えていない。とにかく諸侯の力関係でいつもゴタゴタしていた国だったようですな。首都もあっちに行ったりこっちに来たり。
アルチンボルドという画家が野菜や果物で肖像画を描いたので有名なルードヴィッヒ二世が統治していた時期が、ちょうどこの小説で書かれている時期と重なる。皇帝は統治能力に乏しいというか余り関心がなく、もっぱら美術品蒐集に関心を向けており、宮廷の財政は火の車となっていた。そのためか皇帝は魔術と錬金術に解決を求め、怪しげな詐欺師紛いの人物が宮廷に出入りしていた。(中にはケプラーとかティコ・ブラーエみたいな本物の科学者もいたけど)
ある日、皇帝は街で美しい女性と出会う。それがユダヤの豪商モルデカイ・マイスルの妻である事を知った皇帝は、高徳のラビにとりなしを強要する。ユダヤ人のプラハからの追放の脅しに屈したラビは、彼らが夢の中で逢瀬を重ねられるべく幻術を手配する。しかし、それが神の怒りに触れ、ユダヤ人街には子供たちだけが斃れるペストが蔓延することとなる…。
軽いタッチのコメディかと思って読み始めると、予言とその成就、運命とそれへの対峙の物語として、したたかなボディブローを喰らう一品。やはりヨーロッパ侮りがたし。
2014年5月1日木曜日
バルテュス展
本日は大型連休を更に彩ってくれるデューティ抜きの平日休みと言うまたとない日なので、ぼんやりすごすのも勿体ないと、はるばる上野の東京都美術館まで出かけ、開催中のバルテュス展を鑑賞。
バルテュスについて私の知っていることは乏しく、シュールリアリストたちとの付き合いが多かったのに自分は具象にとどまったとか、歳を取ってから若い日本人女性と結婚したとか、猫をよく描いたとかいう程度の下世話なものばかり。
展示はおおまかに4っに分かれており、一つ目はバルテュスにとっての「青の時代」と言える、何だか印象派のしっぽをぶら下げているような10代から20代初めの作品群。初々しくてなかなかいい。
作風はだんだん艶かしくなり、悪く言えばスキャンダラス、もっと悪く言えば芸能雑誌のイラストみたいな感じになるのだけれども、私のような俗物にはこの時代の作品群が一番しっくりくる。上の「夢見るテレーズ」なんて、賛否両論、喧々諤々だったらしいが、いいじゃん、ロリコンと言われたって。
その後彼はブルゴーニュの城館にこもり、風景画に熱中することになるのだが、きっと画商たちはのんびり牛が歩く森の風景の絵なんかを前にして慌てたことだろう。やっぱバルテュスは少女だ、ということでモデルとして義理の姪が送り込まれたりしているが、スキャンダラスさは消えてさらに洗練された物になっている。
日本人女性と結婚して浮世絵風の絵-私には更に古い絵巻物風に見える-を書いたりしているのをどう評価するのかは少々私には荷が重い。何となく才能の無駄遣いのような気がしないでもない。それと、この人は具象表現を貫いてきたわけだが、これだけの作品を並べて鑑賞して判るのは、やはりそれは象徴的具象なのだということ。妙な格好の物を書くことだけが日常性を超える方法ではないようだ。
バルテュスについて私の知っていることは乏しく、シュールリアリストたちとの付き合いが多かったのに自分は具象にとどまったとか、歳を取ってから若い日本人女性と結婚したとか、猫をよく描いたとかいう程度の下世話なものばかり。
展示はおおまかに4っに分かれており、一つ目はバルテュスにとっての「青の時代」と言える、何だか印象派のしっぽをぶら下げているような10代から20代初めの作品群。初々しくてなかなかいい。
作風はだんだん艶かしくなり、悪く言えばスキャンダラス、もっと悪く言えば芸能雑誌のイラストみたいな感じになるのだけれども、私のような俗物にはこの時代の作品群が一番しっくりくる。上の「夢見るテレーズ」なんて、賛否両論、喧々諤々だったらしいが、いいじゃん、ロリコンと言われたって。
その後彼はブルゴーニュの城館にこもり、風景画に熱中することになるのだが、きっと画商たちはのんびり牛が歩く森の風景の絵なんかを前にして慌てたことだろう。やっぱバルテュスは少女だ、ということでモデルとして義理の姪が送り込まれたりしているが、スキャンダラスさは消えてさらに洗練された物になっている。
日本人女性と結婚して浮世絵風の絵-私には更に古い絵巻物風に見える-を書いたりしているのをどう評価するのかは少々私には荷が重い。何となく才能の無駄遣いのような気がしないでもない。それと、この人は具象表現を貫いてきたわけだが、これだけの作品を並べて鑑賞して判るのは、やはりそれは象徴的具象なのだということ。妙な格好の物を書くことだけが日常性を超える方法ではないようだ。
2014年4月27日日曜日
サイド・エフェクト
「サイド・エフェクト」とは副作用のことで、主人公の精神科医が自分が処方した抗うつ剤の、思わぬ副作用による騒動に巻き込まれるという、人ごとではないお話である。とても楽しく観られるような内容ではないが、たまには冷や汗が出るような話もよかろうかと観てみる。
28歳のエミリーは株屋の夫がインサイダー取引で収監されたストレスからかうつ状態となり、治療を受け始め、一旦は回復していた。しかし夫が釈放されてからまた再発し、バンクス医師を受診する。一般的な抗うつ剤は副作用ばかりでさっぱり効果がなく、エミリーは友人が使っていた新薬を使うように希望する。
新薬は切れ味よくエミリーの状態を改善したが、夢中歩行という副作用が出現する。夜中に料理を始めて、夫が話しかけても返事もせず、後でまったくそれを記憶していない。バンクス医師は薬物中止を提言するが、エミリーはここまで良くなったのだからと認めない。夢中歩行中の行動が妙に趣旨一貫していて、一寸違和感があるのだが、結局それが鍵であることが判るので、少々興ざめ。
エミリーはある日もうろう状態で夫を刺殺してしまい逮捕される。バンクス医師も、副作用を知りながら漫然投与していたことで法的責任を問われかけ、マスコミからも厳しく追求される。さてこれからどう展開するのか、まさか向精神薬はすべて悪というサイエントロジー系のキャンペーンになったりすることもないだろうし、スリラーとしての展開があるとしたらあれだけだろうな、と言う方向に話はどんどん進む。
どんでん返しとは言えない方向で全然違う向きに進み、どうも検察や弁護人の法的取引もそれを手助けしているようで、バンクス医師の窮地がどうなるのかというハラハラドキドキがどこかに消えてしまう展開になるのがまことに残念。最後、エミリーに待っている運命も何だかよく判らない。前医役のキャサリン・ゼタ=ジョーンズは悪女顔過ぎて、こういう意外な展開を狙った物語には向かないような気がする。
エミリー役のルーニー・マーラ、どこかで見た人だと思ったら、ハリウッド版「ミレニアム」でリスベット・サランデルをやった人だったんですね。タトゥーとピアスじゃらじゃらのイメージだったので全然判らなんだ。
2014年4月24日木曜日
ロング・グッドバイ
私は滅多にテレビを観ないのだが、たまたま先週土曜日の夜にニュースでも観ようかとテレビをつけたら、NHKでレイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」の翻案ドラマが始まるところであった。
舞台をロスから東京と思しき当たりにうつし、時代設定はほぼ同じ1950年代初め。当然登場人物は皆日本人。フィリップ・マーロウ役は浅野忠信演じる増沢磐二と言う私立探偵。テリー・レノックス役は綾野剛と言う若手。結構有名な俳優らしいが私は全然知らない。
正直言って大丈夫かいなと思って見始めたのだが、これがなかなかサマになっている。適度なお洒落さと汚れを共存させた戦後都市の造形がTVとは思えぬ重厚さだし、音楽も決まっている。5回で完結するらしいが、もったいないことである。DVDが出るなら買っておきたいと思わせる出来。もちろん、一回目の質が今後も維持されればの話だが。
ロング・グッドバイは「長いお別れ」と言う題名で清水俊二によって原作発表直後には訳されていたが、2007年にかの村上春樹が新しく訳し直している。私がチャンドラーにハマったのは大学生の頃で、清水訳にどうもあきたらず無謀にも原著に挑戦したが、当然のごとく途中で挫折している。
正確さという点では後から訳した村上春樹訳の方がかなり上なのは当たり前で、何度もノーベル賞候補が噂される作家のこと、ブンガク的雰囲気も素晴らしいのだが、ことハードボイルド文体と言う点になると清水訳が捨てがたいと思うのは、初めにそちらを読み、何度か繰り返して読んだからだろう。
最も私は、読むたびに筋も登場人物も忘れ、いつも新鮮な感覚で物語に接するばかりか、乏しい記憶の中ではテリー・レノックスと大鹿マロイがごっちゃになってしまったりするので、文体だの訳の正確さなんか関係ないんですがね。
舞台をロスから東京と思しき当たりにうつし、時代設定はほぼ同じ1950年代初め。当然登場人物は皆日本人。フィリップ・マーロウ役は浅野忠信演じる増沢磐二と言う私立探偵。テリー・レノックス役は綾野剛と言う若手。結構有名な俳優らしいが私は全然知らない。
正直言って大丈夫かいなと思って見始めたのだが、これがなかなかサマになっている。適度なお洒落さと汚れを共存させた戦後都市の造形がTVとは思えぬ重厚さだし、音楽も決まっている。5回で完結するらしいが、もったいないことである。DVDが出るなら買っておきたいと思わせる出来。もちろん、一回目の質が今後も維持されればの話だが。
ロング・グッドバイは「長いお別れ」と言う題名で清水俊二によって原作発表直後には訳されていたが、2007年にかの村上春樹が新しく訳し直している。私がチャンドラーにハマったのは大学生の頃で、清水訳にどうもあきたらず無謀にも原著に挑戦したが、当然のごとく途中で挫折している。
正確さという点では後から訳した村上春樹訳の方がかなり上なのは当たり前で、何度もノーベル賞候補が噂される作家のこと、ブンガク的雰囲気も素晴らしいのだが、ことハードボイルド文体と言う点になると清水訳が捨てがたいと思うのは、初めにそちらを読み、何度か繰り返して読んだからだろう。
最も私は、読むたびに筋も登場人物も忘れ、いつも新鮮な感覚で物語に接するばかりか、乏しい記憶の中ではテリー・レノックスと大鹿マロイがごっちゃになってしまったりするので、文体だの訳の正確さなんか関係ないんですがね。
2014年4月13日日曜日
ナイン・ドラゴンズ
どうも最近まるきり何もやる気が出ず、仕事はなんとか仕方なくこなしてはいるものの、休みの日など家の外にでるのも面倒で、身の回りのことを済ませるとただぼんやりと時間を過ごすばかり。これではイカンと、せめてミステリでも読もうとアマゾンでマイケル・コナリーの新作「ナイン・ドラゴンズ」を注文。結局上下2巻を一日で読んでしまった。
コナリーは毎年一作は長編を出す多作家だが、翻訳が間に合わず、この「ナイン・ドラゴンズ」も新作と言いながら2009年の作品である。まだ6作ほど未翻訳があるがそれらの出版は何時の事になるのやら。一度待つのに疲れて原著を買ったことがあるが、さすがに全部は読みきれなかった。
コナリーのミステリは翻訳されたものは全部読んでいるのだが、なんでそんなに気に入ったのかというと、メインのシリーズが、ヒエロニムス・ボッシュという名前のロス市警刑事を主人公にした警察小説だったから。あの初期フランドル派の画家と同じ名前なのである。聖書から題材をとって、化け物や堕落した人間たちであふれた特異な絵を描く画家である。
もう何年前になったろうか、マドリードのプラド美術館で彼の代表作「快楽の園」を、その意外に小さなサイズに驚きながら、長い間眺めていたことを思い出す。そこに描かれた快楽の罪に浸る人々はただ恍惚に酔いしれており、地獄で化け物達に永遠の責め苦を負わされることなどまったく意に介していないように見えた。中世の人々もこの絵を見て罪におそれおののくというより、快楽への渇望に浸っていたのではないかと思ったものだった。
そんな名前の刑事が出てくるぐらいだから、シリーズに出てくる犯罪者たちは一筋縄ではいかない罪への耽溺者ばかりで、それに対してボッシュが独自の論理と倫理を駆使して、警察組織の自己保身勢力に足を引っ張られながらも戦っていくという内容だった。読後のカタルシス感はまことに爽快で、現代ミステリでは一番のお気に入りなのである。一連の小説にはボッシュシリーズから派生した別主人公物もあり、それはそれなりに面白いのだが、やはりコナリーの真骨頂はこのヒエロニムス・ボッシュ刑事シリーズと言える。
今回は酒屋の中国系老店主が射殺されるという事件が発端となり、ボッシュはアジア系犯罪ユニットの中国系刑事と協力しながら捜査を進めていくことになるのだが、店主が香港の犯罪組織・三合会にみかじめ料を払っていたことが判明し、集金係の男に疑惑がかかる。その過程でボッシュにはアジア系の訛りで脅迫電話がかかり、捜査情報の内部漏洩疑惑が生じる。
この時点で、あれ、警察内部以外にももう一つルートがあると普通は考えるのではないかなと私は思ったのだが、何故かボッシュは疑心暗鬼となり、中国系刑事や協力する所轄署アジア系警察官まで疑い始める。しかも、ボッシュの別れた妻と13歳になる娘は香港で暮らしており、ボッシュのもとには娘を拉致したというメール映像が送られてくる。
ボッシュは三合会による誘拐と確信し、メール画像の分析から娘の居場所を推理し、単独で香港に向かい、別れた妻の恋人でもある男と協力しながら娘を救出しようとする…、というのが大枠の内容。ネタバレになるのでこれ以上は書かないが、大きな犠牲を払いながらも見事娘は救出され、事件も完全に解決する。いささか松竹新喜劇風の「偶然の一致」と言う要素が多いのが難点で、私が前半に感じた疑問が結局この事件の鍵だったことも判る。
実質一日の間に太平洋を端から端まで往復して、事件を解決に導いたボッシュの活躍は素晴らしいのだが、今回は正直いってあまり読後のカタルシス感は高いものではない。ボッシュが警察内部の情報漏洩を疑い、事件をわざわざ困難なものにしてしまった理由は、ただただ中国というか、アジア全般に対する不信と偏見にすぎないのである。娘の誘拐ということを除けば、今回の事件はボッシュとは無関係に、あるハイテク捜査技術だけで解決できている。
その意味では、今回のボッシュの活躍は娘を東洋から西洋に奪還したと言う一点であり、確かに娘の命は救われはしたのだが、いささか複雑な思いに捕らわれてしまう結末だった。題名のナイン・ドラゴンズは香港の九龍半島から取られたらしい。中日ドラゴンズのナインとは無関係なのでご注意を。
コナリーは毎年一作は長編を出す多作家だが、翻訳が間に合わず、この「ナイン・ドラゴンズ」も新作と言いながら2009年の作品である。まだ6作ほど未翻訳があるがそれらの出版は何時の事になるのやら。一度待つのに疲れて原著を買ったことがあるが、さすがに全部は読みきれなかった。
コナリーのミステリは翻訳されたものは全部読んでいるのだが、なんでそんなに気に入ったのかというと、メインのシリーズが、ヒエロニムス・ボッシュという名前のロス市警刑事を主人公にした警察小説だったから。あの初期フランドル派の画家と同じ名前なのである。聖書から題材をとって、化け物や堕落した人間たちであふれた特異な絵を描く画家である。
もう何年前になったろうか、マドリードのプラド美術館で彼の代表作「快楽の園」を、その意外に小さなサイズに驚きながら、長い間眺めていたことを思い出す。そこに描かれた快楽の罪に浸る人々はただ恍惚に酔いしれており、地獄で化け物達に永遠の責め苦を負わされることなどまったく意に介していないように見えた。中世の人々もこの絵を見て罪におそれおののくというより、快楽への渇望に浸っていたのではないかと思ったものだった。
そんな名前の刑事が出てくるぐらいだから、シリーズに出てくる犯罪者たちは一筋縄ではいかない罪への耽溺者ばかりで、それに対してボッシュが独自の論理と倫理を駆使して、警察組織の自己保身勢力に足を引っ張られながらも戦っていくという内容だった。読後のカタルシス感はまことに爽快で、現代ミステリでは一番のお気に入りなのである。一連の小説にはボッシュシリーズから派生した別主人公物もあり、それはそれなりに面白いのだが、やはりコナリーの真骨頂はこのヒエロニムス・ボッシュ刑事シリーズと言える。
今回は酒屋の中国系老店主が射殺されるという事件が発端となり、ボッシュはアジア系犯罪ユニットの中国系刑事と協力しながら捜査を進めていくことになるのだが、店主が香港の犯罪組織・三合会にみかじめ料を払っていたことが判明し、集金係の男に疑惑がかかる。その過程でボッシュにはアジア系の訛りで脅迫電話がかかり、捜査情報の内部漏洩疑惑が生じる。
この時点で、あれ、警察内部以外にももう一つルートがあると普通は考えるのではないかなと私は思ったのだが、何故かボッシュは疑心暗鬼となり、中国系刑事や協力する所轄署アジア系警察官まで疑い始める。しかも、ボッシュの別れた妻と13歳になる娘は香港で暮らしており、ボッシュのもとには娘を拉致したというメール映像が送られてくる。
ボッシュは三合会による誘拐と確信し、メール画像の分析から娘の居場所を推理し、単独で香港に向かい、別れた妻の恋人でもある男と協力しながら娘を救出しようとする…、というのが大枠の内容。ネタバレになるのでこれ以上は書かないが、大きな犠牲を払いながらも見事娘は救出され、事件も完全に解決する。いささか松竹新喜劇風の「偶然の一致」と言う要素が多いのが難点で、私が前半に感じた疑問が結局この事件の鍵だったことも判る。
実質一日の間に太平洋を端から端まで往復して、事件を解決に導いたボッシュの活躍は素晴らしいのだが、今回は正直いってあまり読後のカタルシス感は高いものではない。ボッシュが警察内部の情報漏洩を疑い、事件をわざわざ困難なものにしてしまった理由は、ただただ中国というか、アジア全般に対する不信と偏見にすぎないのである。娘の誘拐ということを除けば、今回の事件はボッシュとは無関係に、あるハイテク捜査技術だけで解決できている。
その意味では、今回のボッシュの活躍は娘を東洋から西洋に奪還したと言う一点であり、確かに娘の命は救われはしたのだが、いささか複雑な思いに捕らわれてしまう結末だった。題名のナイン・ドラゴンズは香港の九龍半島から取られたらしい。中日ドラゴンズのナインとは無関係なのでご注意を。
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