2013年7月30日火曜日

ソニー号空飛ぶ冒険

またまた宮崎氏のブログからの剽窃。60年代初期、TV創世時代の思い出話なので、爺さまの昔話はかなわんよと思われるのは必至であろうが、あえて触れさせて頂く。

このドラマは小さなヘリコプター運輸会社を営む二人の主人公が個人や警察の依頼のままに様々な冒険と出会う話なんだが、本家では1957年に第一シーズンが始まっていて、ヘリを使うスタントがまだ珍しい時代、けっこうな人気を得たシリーズだったようだ。

日本でもほとんど遅れることなくほぼ同時期に放映され、TVを買ったばかりの我が家では30分番組ながら(この時代のTVドラマは和洋問わずほとんど30分ものだった)、毎週楽しみに見ていたものだった。

向こうの原題は"Whirlybirds"、"Copter Patrol"と呼ばれる場合もあるらしい。Wikipediaでは英国とイタリアでも放送されたとあるが、日本での放映については触れられていない。その時代は日本など意識されていなかったのであろう。

ましてや勝手にヘリにスポンサーの名前をつけて、番組の題名にして、日本だけの主題歌をつけるなんてことはまず、グローバルスタンダードなんて関係なかった時代だったからこそ許されたのだと思う。ちなみに、元の番組ではヘリには単なる機体番号しかついていないらしい。

私にとって一番不思議なのは、この番組を見ていた当時から、鉄骨みたいな機体の尾部に"SONY"とデカデカと書かれていたという視覚的記憶があることなのである。番組内のセリフやら、主題歌で「ソニー号」と何度も聞かされていたので錯誤記憶が形成されたのか。しかし、そんなことでアルファベットの視覚記憶が生じるものだろうか。マウスに電気刺激の偽記憶を作るのとは違うのである。

あの時代、後から動画に書き込むことは手作業でやるしかないだろうし、もしそうしたとすればかなり不自然なものになったのは間違いない。でも私の記憶の中のソニー号は、機体と一体化したSONYのロゴをつけ、今も私の辺縁系あたりを軽やかに飛び回っているのである。

2013年7月29日月曜日

上行大動脈解離手術の予後に対する季節と月齢の影響について

「月齢と季節が上行大動脈解離手術の予後に及ぼす影響については、広く知られているとはいえない。我々はこれらの院内死亡率や術後生存者の在院日数に対する影響を調査した。」

季節はとにかく、月齢が心血管手術に及ぼす影響など誰も知らないし、そもそも知ろうとも思わないような気がする。それを大まじめにやったのがこちら(リンク先はpdf)の論文。

この論文はロードアイランドの州都プロビデンスにある二つの病院で1996年1月から2011年12月までに上行大動脈解離で手術を受けた210名の患者について、入院時(緊急手術を要する疾患なので、同時に手術時でもある)の月齢と季節を調べている。被手術者は解離修復のみ(多分人工血管置換するんだろうが…、よく知らない)を受けた群と、同時に冠状動脈バイパス術を併用した群の二群にわけられ、それぞれの院内死亡率、在院日数について、月齢、季節双方との関連を見ている。

その結果、冬に死亡率が高い傾向は見られたものの統計的に有意とはいえず、有意性が示されたのは症例の年齢(勿論、高齢なほど死亡率が高い)、糖尿病の有無、そして、月齢であった。とりわけ月齢、それも満月から下弦の半月までに手術を受けた症例の死亡率は明らかに低く、統計的有意性も最も明らかであった。

新月から上限の半月を経て満月に至る時期と、下弦の半月から新月に至る期間の死亡者数が10前後なのに比して、満月から下弦半月までの期間の死亡者は4であった。著者たちは月の重力による潮汐力が体内の血流動態に影響をおよぼすのではないかという考察を行なっている。まあ、明日は満月と言う日と、満月の日で何が違うというのだろうという疑問は残る。

思わずエイプリルフール論文ではないかと思って、提出日をみたら今年の2月で、受諾されたのは6月だった。昔、ロードアイランド医学健康雑誌に掲載されたという「パーキンソン病発症リスク要因としてのエイリアン・アブダクション」というエイプリルフール論文の題目を見つけ、必死に元論文を検索したがなぜかその号だけが保存されていなかった、という経験があるので、もしかしたらロードアイランドという所は医学的プラクティカルジョークが奨励されている土地柄なのかもしれない。

何であれ、もし大動脈解離という大病に見舞われることがあったら、病院に駆けつける前にまずその日の月齢を調べるのを忘れずに。まあ、満月期でないから手術なんか受けないとごねていたら、ほぼ確実な死がやってくるだけのことなんだけれど。


2013年7月25日木曜日

新宿へ……。

知り合いから来るべき老後生活の安定に関する一提案を頂き、新宿の某地まではるばる打ち合わせのためにお出かけ。

目的地の近くに、こんな彫刻というか、ランドマークというか、ちょっと言葉に詰まるモノがあったのでお上りさん丸出しになって写真を撮る。

多分、立体トリックアートになっていて、見る角度を変えたら"hate"になっていたりするのだろうと思ったが、そんなことはなかったので著しく落胆。愛-失望-憎しみ、なんて具合に眺める角度で変化して見えたら最高なのに。

肝心の老後生活充実計画の方は、提示されたものがあまりにこちらの常識的考え方を超えていたので、今のところなんとも決断できなかった。自分のキャリアにもそろそろ先が見えてきているし、アベノミクスにカモにされる前に、何らかの発想の転換が必要なのは判るのですがね……。仄めかしばかりの記述でごめん。

     炎昼に 群衆は耐え LOVEも耐え

2013年7月24日水曜日

Good old days

私がかねてより畏敬の念とともに拝読させていただいている医師ブログ、「日日平安録」にこんな記事があった。それによれば「製薬会社が医療機関や医師に提供した費用などを公開しようと」する動きにたいして医師会がそれに反対し、本来ならこの5月に公開されるはずのものが延び延びになっているのだそうだ。 

最近ファイザーという会社が単独で公開に踏み切ったそうで、その資料では「研究開発費などが116億円、原稿執筆料などが11億円」、接待費だけでも億を超えているそうである。ファイザーといえばバイアグラで有名だが、向精神薬も結構出していて、抗うつ剤のジェイゾロフト、抗不安剤のソラナックスあたりが有名どころであろうか。

実際私のような窓際医師には、製薬会社がどんな形であれ金銭を潤沢に提供して来るようなことは考えられず、たまにボールペンかティッシュペーパーを頂く程度である。それも最近すくなくなった。もしかしたらああいうのも自主規制の対象になったのかもしれない。

 たしか一年前ぐらいに、製薬会社の販促社員が医師に飲食接待をすることも禁じられたはずである。主体は誰で、どんな権限でそうしたのか、と言うところまでは知らない。刑法に抵触するようになったわけではあるまい。多分、業界の自主規制なんだと思う。

ちょっと前までは「新製品説明会」というような名目で、何かの会食のスポンサーを申し出てくれていたのがナシになったので、私などはここ一年まえから、説明会名目で高級料亭やらレストランに行く機会は全くなくなった。どうせ接待されてもどこの製薬会社だったか、帰る頃には忘れているし、そもそも自腹でそんなところに行くこともない。 

それでもここ10数年間ぐらいの接待ルールというのは結構つましいもので、野放図にタカリのごとき接待を要求するような医師や、それは贈賄だろうというような利益提供をする製薬会社を少なくとも私の周りで見ることはなかった。そんなことを言えば昔はあったのだろうといわれるだろうが、その通りあったのである。

私らはあまり利権を生むほどの高額薬剤を大量に使うことがない診療科なので、それほどたいした誘惑もなかったが、高価な抗生物質や抗癌剤を多量に使う診療科では、製薬会社の提供する資金を上手く手に入れることが医局派閥運営に大きな影響を持っていたのである。 

私も弱小医局の経理を任されていたことがあり、研究用図書を揃えるために、あまり感心しない手法で症例報告を量産したことがある。もちろん、嘘を書くわけではなく、ハッピーケースをメインに報告するのがその手口。今のようにランダム化手順などが確立されていなかった時代だったからこそ可能なのだが、今思い出してもあまりいい記憶とは言えない。だから、いまだに「新薬XXXの有用性」というような提灯持ちが明らかな論文は全く信用しない。 

いずれにせよ、製薬会社が大学や医療機関、個別医師に提供している資金の公表は必要なことであろう。私はそれらが総額では結構な額になるとはいえ、個々の額はささやかなものであると信じたい。でも、もし呆れ果てるような多大な額であったとすれば、私の関わったような窮余の策で弱小医局の研究費として得た僅かな金銭でいまだに感じている良心の呵責を、多少でも和らげてくれるかもしれない。ちょっと都合良すぎるかな。

2013年7月21日日曜日

選挙前日予想

以前、しょうもないブログをやっていた時、選挙のたびごとに結果予想をしていて、結構当たることもあったのでまた性懲りもなくやってみようと思う。予想の根拠は単なるこちらの思い込みだけ。外れても何の責任も取りません。

まず、あまり面白くもないが自公の過半数勝利は間違いないだろう。しかしマスコミの言うような圧倒的勝利には至らないというのが私の意見。あまりの好条件、それも別に自分たちが苦労して創りあげたわけでもなく、単なる敵失で得られた優位性に調子に乗りすぎていると見る有権者は多いだろう。

民主党はボロボロにはなるだろうが、それなりの基盤は維持するというのも私の予想。彼らは政権担当能力の乏しさを露呈はしたものの、それは官僚たちとのコミュニケーション能力の不足、労組への過剰な依存が問題なのである。労組と距離を置けないその姿勢が、より凋落を加速しているという洞察に乏しいのが致命的ではあるのだが。

機を見るに敏な連中、みんなとか維新(この人たちは結局そのタイミングの見計らい能力すらないことを自ら露呈したわけだが)は惨敗。生活、社民はなにそれ美味しいの、で終わるだろう。幸福なんとかには触る必要なし。教主が頭にきてサリン撒いてやると言い出さないか、多少不安。

問題は共産であるが、ここは侮れない。基本的には社会的ネグレクト層の期待を担ってそれなりの支持をとるはずだが、正直言って自公の示す「改革」のほうがダイナミックなのである。共産の「前衛-大衆」路線と似たようなものながら、自公が巧みに隠しながらも露骨に導こうとする「支配者-被支配者」路線のほうが、より徹底的に映るのである。

被支配者に終わるしかない大勢の脳天気がそれを支えていて、共産支持者のほうはそんなことにはだまされないだろうが、限界はどうしようもない。結局は55年体制の自社よりはギスギスしつつ、補完体制を形成する程度に終わるだろう。

ナチス台頭を許したワイマール共和国の教訓を活かそうとするなら、投票は自公への現実的批判を展開できる勢力、もしくは最悪自公内であってもそこで批判的態度を維持できる個人に向けられるべきであろうと思う。

2013年7月19日金曜日

携帯電話が見つかった

一昨日前、仕事中にドコモから電話。ピンクパンサーのテーマ曲なんぞを携帯の呼び出し音にしているので、患者さんの家族の前で大恥。だって、普段電話なんか病院支給の業務用PHSにしかかかってこんのだもの。

優しい声のお姉さんいわく、あんたが落としたと言っていた携帯電話が届けられている。出来る限り早く、住んでいる場所から3つ離れた街まで行って、引き取るように。たしかに新しい携帯電話は保険の契約上そちらに届けたが、契約上落としたものが見つかればすみやかに返納することになっている。返納されない場合は違約金が発生するので覚悟するように、と。

なお、届け出られたのはJRの構内だったのでまず3つ向こうの駅に行き、所定部署で書類を作ってもらい、それからその街の警察に行って引き取るように。引き取らず、返納もされなければ違約金が…。はいはい、よく分かりました。明日中に手続きさせて頂きます。

そんな訳で昨日はせっかくの平日休みを潰して10数キロ離れた街まで、携帯電話の引き取りに。その街は戦災で丸焼けになったおかげなのか、湘南と呼ばれる辺りでは例外的に都市計画が徹底し、やたらに道が広く景観もよい。なんか、昭和40年台の名古屋を思い出す無機的町並みである。残念なことに人口はそれほど増えず、かなりもの寂しい。

それでも駅前の無料駐車スペースは狭く、結構離れたところにえらく高いパーキング・メーターを見つける。30分かけて書類を作ってもらい、まだ200円分残っているメーターを恨めしく眺めながらちょっと離れた場所にある警察に。なんとか携帯電話を貰い受ける。

これなら見つからなんだほうが良かったかなぁと、罰当たりな感想を持ちかけるが、私の手に戻るまで、見つけてくれた普通の人達の正直な態度と、公的機関の無私で真面目な仕事ぶりはこの国にいるからこそ享受できるものなのだと考えなおす。妙な画像ばっかり入っているSDカードも回収できたしね。

2013年7月16日火曜日

LAヴァイス

昔、と言っても40年ぐらい前のこと(充分昔だ)、友人が「重力の虹」という分厚い二分冊の小説をいつも持ち歩いていて、その文学趣味の深遠さをアピールしていたものだった。

その内容を尋ねると、時空を超越した、物語という概念そのものへの挑戦とでも言うものなのだという返事。なんだかよく判らない。

そもそも一度にどうして二分冊の小説を持ち歩くのだろうとこちらは不思議に思い、もしかしたらアピールだけで読んでないのではないかと訝ったものだが、おそらくその疑問はあたっていたと思う。トマス・ピンチョンという小説家はそんなふうに私の前を横切り、40年間忘れられていた。

たまたまアマゾンのマーケットプレイスでピンチョンの新作(と言っても4年前)であるLAヴァイスなる小説が安売りされているのに気づき、早速買い込んだ。買った理由は昔の記憶以上に、カバーの画像。なんだかグランドセフトオートの包装を思い起こさせるものだったのが大きい。

時代設定は70年代初頭のLA。元ヒッピーで今もマリファナ漬け私立探偵ドックのところに、昔の女が訪ねてくる。「助けがいるのよ、ドック」。このハードボイルドお約束てんこ盛りにたまらず後を読み続けたのだが、さすがにポストモダンと言われる作家だけのことはあって、並の努力では読み通せなかった。

筋書き自体は典型的ハードボイルド探偵小説であるものの、とにかく当時のサーフ・ロックやTVショーのトリビアとか、ドックの幻覚やら妄想観念への言及が入り乱れる。格調の低いドストエフスキーかジェイムズ・ジョイス(両方とも本気で読んだことはないが)、エロさでは同等のヘンリー・ミラーあたりのくどさと付き合う決意が必要。

それでも探偵小説としての筋書きは見事に完結し、その後になんだかよく判らないまま、物語そのものへの懐疑というか、そんな独特の読後感を残す怪作といえるのかもしれない。単なる難解小説家の筆のすさびと言う説も有力ではあるが。

それでも私はこの小説と出会えたことを純粋に喜びたい。というのも、ピンチョンは日本の怪獣映画への造詣も深いらしく、この小説のなかで64年の東宝映画「三大怪獣 地球最後の決戦」についてのトリビアを添えてくれている。そこでピンチョンはこの映画が「ローマの休日」のリメイクであることを喝破しているのだ(まあWikipediaでも指摘されている事だが)。

私は中学二年の時この映画を見ているのだが、当然「ローマの休日」はまだ見ていなかった。TVの洋画劇場でそれを観た時、どうにもデジャブ感がついて回って弱った。その理由がやっとわかったことだけでも、ピンチョン、只者ではなかろうと感服してしまうのである。

2013年7月14日日曜日

スウィングしなけりゃ意味がない

「スウィングしなけりゃ意味がない」というジャズのスタンダード・ナンバーがあるが、村上春樹の音楽評論本には、これをもじった「意味がなければスイングはない」というものがあるらしい。

元の曲名を命題と捉えるなら、村上春樹の本の題名は元の逆命題ということになり、当然、真偽値は一致しない。

元命題と真偽値が同一であるためには、その対偶をとる必要がある。この場合は「意味があればスイングする」となる。意味があることがスイングの十分条件だということだ。言うならば、意味がなくてもスイングする場合があるということが、対偶に変換することで明示的になったと言える。

村上本題名では、この「意味がなくてもスイングする場合がある」ということが否定されてしまうことになる。確かに、音楽について言語的に語ろうとしている時、「理屈なんかなくったって、ノリが良ければいいじゃん」と言う意見ばかりでは本になりませんわね。

もっとも、音楽なんてものは意味などとは無関係に楽しまれてきたものではないかな、とも思う。勿論、ここで言う「意味」と、曲名にある「意味」はかなり違うものであることは承知の上なのだけれど。

たまにはややこしい事を考えてみようと思ったが、連休二日酔いモードでは上手くまとまらない。

2013年7月13日土曜日

スマホ紛失

一昨日の観劇のあと、友人たちとちょっとした飲み会を開いた後、湘南新宿ラインで帰宅したのはいいのだが、自宅の最寄駅に着いて改札を出ようとしたら、携帯電話がどこにも見当たらない。

電車に乗るときモバイルSuicaを使ったはずなので、要は電車の中で紛失したことになる。酔っぱらいの典型的オヤジとなってグースカ寝込んでいたからな。手から取り落として、シートの隅にでも転がり込んでしまったのか。

ホームの落し物窓口に届け出て、出てきたら連絡してもらうことになったが、翌朝再度問い合わせると、昨夜の車両係も気づいておらず、乗客からもなんの届け出もない。終着駅の車両基地で調べたが落ちていなかったとの返事。

考えてみれば、失くした直後にGPS機能でどこにあるかを調べてもらえばよかったのだが、そこまで考えが及ばず、翌日ドコモに連絡した時は既に電池切れ状態だった。24時間ギリギリしか持たない電池というのも困ったものである。持っている人間が一番困ったものなのはわかっているのだが。

紛失時の保険に入っていたので、数千円未満の負担で同じ物が翌日の夜には送られてきた。結構な保証制度である。それはいいとして、設定とアプリの復元作業やらSuicaの再発行やらで一日中仕事もそぞろ。それほどの経済的ダメージはなかったとはいえ、こうして一つ一つの過去を失っていき、やがて未来もなくなる日が来るのだな、という感慨を深めることになった今日一日なのだった。

2013年7月11日木曜日

「盲導犬」観劇

渋谷Bunkamuraシアターコクーンに唐十郎-蜷川幸雄コラボ演劇「盲導犬」を友人たちと観に行く。

田舎者は渋谷という街の雰囲気にすでにビビってしまい、圧倒的アウェイ状況で萎縮してしまいそうになる。負けてなるものかと無意味に緊張するので芝居以前に疲労困憊。

この芝居は唐十郎が、70年代初頭、小劇場を立ち上げては潰し、演劇界の小沢一郎と呼ばれていた(嘘)蜷川幸男のために書き下ろしたもの。観たこともなければ、唐の戯曲集で読んだこともない。まあ、当時唐は犬が象徴的テーマの芝居をいくつか書いていて自分の劇団で上演していたような気もする。

今日観てきた直後でもなんだかよく判らん話なんだが、盲導犬に象徴される服従と非服従をめぐる物語だったようだ。これが70年代初頭という社会的状況では、それなりの脈絡を観客が勝手に感じ取ったのだろうが、今となってはそのニュアンスも希薄。いわゆるアングラ劇のエネルギーを受け継ぐ役者が乏しいのも致命的。宮沢りえはやはり可愛いのだが、いったい彼女は何を目指しているのか、多少不安に感じないこともない。

70年代当時の唐十郎としても多少この芝居は不完全燃焼というか、唐らしいイマジネーションと言葉の遊びと物語性の見事な混交があまり成功しているとは言いがたい。S席で9500円払って、え、これで終わり?というのが正直な印象。たちの悪い風俗店でカモられた気分である。まあ、行ったことないのでよく判らんのだけど。

ちょっと疲れたので、Face Bookにアップした文章をほとんどそのまま投稿。

2013年7月8日月曜日

今日のグーグルロゴ映像「ロズウェル事件」

1947年7月8日、ニューメキシコ州ロズウェル陸軍飛行場が、付近の牧場から墜落した「空飛ぶ円盤」を回収したと発表。

軍はその直後にそれを否定し、回収されたのは気象観測気球であったと訂正した。

そのわざとらしさが世の人々の疑惑を呼び、有象無象のでっち上げやら仄めかしが横行し、米国政府は異星人とコンタクトをとっているにもかかわらずそれを隠蔽しているという神話がはびこる嚆矢となった。

いかにもハリボテじみた異星人の解剖映像とか、様々な目撃証言などがほぼインチキであったことは証明されているのだが、権力による真実の隠蔽という神話化しやすいテーマのおかげで、今日になってもなお喧しい議論が絶えないのはご承知の通り。

さすがにグーグルのロゴ映像はそんな神話化論調に乗っかるものではなく、噂話の記念日として、5分ぐらいは楽しめる気の利いた小ゲームにまとめてある。ゲームの結末では宇宙人はUFOを修復して帰っていくので、少なくともグーグルは、UFO墜落、生存宇宙人の拉致と言うストーリーは信じていないようですな。

   UFOの墜落を見たと君が言ったから7月8日はロズウェル記念日

2013年7月6日土曜日

ありあわせディナー

下の娘が急に帰ってきて、明日はこの近くで資格試験があるので今日は泊まっていくとのこと。

先日、私の誕生日にも娘が帰ってきて一緒に食事をしたのだが、それがあまりにありあわせだったので、今日はもうちょっとマシなものをと思って作ったのがこれ。

バーニャカウダ風ディップ添えサラダにキャベツとアンチョビのパスタ、メインはホウボウのアクアパッツァ。全品にアンチョビとニンニクがたっぷり入っているというシロモノ。ちょっと色彩感が乏しいのが反省の第一点。

毎年、近くの漁港でシコイワシを調達して自家製アンチョビを大量に作るのが習いになっているので、とにかくアンチョビを使う料理は第一選択になる。味もまあ、なんとか許せる範囲に収まっているように思える。それでシャンパンを開け、まあ気分だけはリッチなディナーとなった。

その後、コニャックでもと言いたいところだが、そんなものはどこにもなく、ちびちび焼酎なんかを飲みだすのが少々情けないところ。

2013年7月5日金曜日

クロネコからのプレゼント


注文した覚えのない宅配便が配達される。そこそこの大きさの割りにえらく軽い箱には「クロネコポイント」と書かれている。

そうだった。一人暮らしで、やたらに宅配便を利用する私はクロネコメンバーズというのに加盟していて、配達予定連絡や配達時間の変更などのサービスを受けていたのだった。住んでいるマンションには宅配ボックスがないもので。

品物が送られて来るだけでもポイントが溜まって、プレゼントと交換出来るというのを先日知り、欲どおしくも送付を依頼していたが、何を頼んだのかは全く忘れていた。大概のプレゼントは「抽選で何とかが当たる」と言うものだったので、くじ運の悪さには自信がある私としては、確実にモノがもらえるものを選んでいたのだった。

大きな箱を開けてみると…、中にごく小さな箱が固定されていて、その中からさらに小さな宅急便配達トラックのミニチュアが出て来る。もしかしてUSBメモリーになっているとか、デジカメ機能が付いているかもと、しげしげ眺めてみるがそんなことはない。一応、後部ドアだけは開くようになっていた。猫も本家クロネコからのダンボール箱には興味を示したが、このミニチュアは無視。

まあいい。今年の誕生日にもらった唯一のプレゼントだと思っておこう。それにしてもこの余裕ある梱包は、輸送効率というものを考えた上で最適化されているのだろうか。Amazonからの配送を見るたびいつも考え込んでいたのだが、クロネコ本社自体がこの路線を進めているんだろうか。いや、何も箱いっぱいのプレゼントを期待していたわけではないんだけれど。

2013年7月4日木曜日

ロシアのタンポンCM?


シモネタということになるのか、今ひとつ自信がないが、最後までオチを予測するのが困難な点がなかなか秀逸であると思える。Movie 43という米国のコメディアンソロジー映像からの引用らしい。

何故かナレーションがロシア語のように聞こえるんだが、ロシアでCMとして使っているかのように装う、というねじれたギャグ感覚なんでしょうな。

2013年7月3日水曜日

カフカ生誕130周年

Die_Verwandlung

グーグル記念画像シリーズ続編。

今日はカフカ生誕130周年であるそうだ。高校生の頃だったか、カフカにえらくハマった時期があり、今の商売を選んだ理由の一つにもなっている。

もっとも、今の仕事に就いて判ったのは、カフカが描いたような不条理含みな不安など、市井の人間の実際の苦悩とは全く無関係であること。疾患性を帯びた不安ですら、人間の不安というのはえらく判りやすいというか、ブンガク的な上品さとは無縁なものがほとんどなのである。

そういうことが共有されているのかどうかは知らないが、グーグルの画像もえらく軽いというか、蝶ネクタイをつけたゴキブリ風キャラがカバン抱えてビジネスに勤しむような雰囲気である。変身しちゃったんだし、新しいビジネスチャンス見つけようーっと、と言うような感覚。

カフカが囚われていた、自己の身体的イメージすら維持できなくなるような息詰まる不安というのは、現代には一部を除いて無縁なのかもしれない。かの精神分裂病すら軽症化し、統合失調症なんて気が抜けたような病名で表わされるようになった今日此の頃、カフカには可も不可もつけようがない時代となったのかもしれない。

                                                                                                                                   

2013年7月1日月曜日

Googleの誕生日メッセージ

朝方自分のMacを覗いたら、ホームにしているGoogleの画像表示がバースデイケーキのようなものになっていた。

はて、今日は誰の誕生日なんだろうと画像にマウスを乗せると、なんと私の名前と「誕生日おめでとう」のメッセージが表示される。

はて、これはいかなる仕組みなんだろうとしばし考え、多分Bloggerに登録したついでにGoogle+もアクティブにした結果であろうかと思い至る。そういえば検索のたびに右上に自分の名前が表示されるようになっているが、実のところを言えばあまり気持ちいい体験ではない。

それでなにかデメリットが有るかと言われたらあるわけもないのだが、ビッグブラザーに監視されている気分はやはりついて回る。誕生日のお祝いメッセージが表示されるぐらいでその気持ち悪さは払拭されるものではない。

まあ、いい歳になると自分の個人情報なんぞ屁のようなものであるのは承知するしかなく、誕生日といっても寿命にまたひとつ近づいたかとため息をつく切っ掛けに他ならない。そんなに深い意味を考えることもなく、純粋に一つ歳をまた無駄に重ねたのだなぁという感慨を思い起こさせてくれる機能として、ビッグブラザーの親切というか、お節介を素直に受け入れておきたい。