2014年12月13日土曜日

駄作

先月から結構な数のミステリを読んだのだけれど、そのほとんどがハズレだった。中にはずっと贔屓にしていたシリーズ物の新作もあったのに、それも今ひとつだったのは極めて残念なことだった。今度新作が出てももう買わないだろうな。

そんな中、ほとんど期待しないで読んだのだが予想を超える面白さだったのがこれ。なにせ表題からして「駄作」である。アマゾンでは本日の時点で8人がレヴューを投稿しているが5人までが星ひとつ。罵詈雑言の集中砲火を浴びている。

そんな低評価の作品をなんで読んだかといえば、作者のジェシー・ケラーマンが、10数年前に結構ハマったシリーズ物ミステリ作家の息子であると知ったから。両親共にミステリ作家で、特に父親は小児臨床心理学の専門家という経歴を持ち、変態シリアルキラーが出てくる内容を手堅くソフトにまとめる手腕で知られるジョナサン・ケラーマンなのである。

ペンネームも使わず、堂々とファミリーネームで執筆するからには、きっと自負するところがあるからだろうと勝手に推測し、二分冊になってもおかしくない厚みの、文庫本ながら千円以上する新刊をエイやっと気合を入れて注文する。ついでにどこかに行ってしまった両親の本も何冊か注文したが、もう古本でしか手に入らなくなっており、諸行無常を覚えたものだった。

内容は売れない純文学作家が、ベストセラー作家になった友人の葬儀に招かれ、その仕事場で未完のミステリ原稿を発見する。それをこっそり持ち帰り、少々書き換えて出版したところ大当たり。たちまちベストセラー作家の仲間入りをするのだが、二作目が書けない。呻吟していたところに思いもかけない申し入れをする人物が現れ、その理由というのが奇想天外なものだった…、というもの。

途中からは想像力の彼岸に達しているというしかない展開になり、ちょっと脱抑制にも程が有るのではという部分もあるのだが、呆れ果てながらも読み続けるしかない。馬鹿馬鹿しいまでの逸脱プロットながら、なぜ常套句で満ち溢れた通俗小説が売れ、地道な文学的営為を積み重ねた真面目な作品は評価されないのか、という作家の視点がベースになっており、通俗小説の形を借りた通俗小説批判と言えるかもしれない。

作者はこんなシニカルな眼で親父たちの作品群を眺めていたんですかね。巻末の略歴だけではその人となりは詳しくわからないが、そうグレた青春を送った様子もなく、程々に文学芸術と売文業を両立させている人のように思える。なんであれ、これまでの快適な人生前半を可能にしてくれた通俗小説に文句がある筈はないですわな。

2014年11月16日日曜日

コタツを出す

朝方、寒さで早くに目覚める。枕元の目覚ましについている温度計は9℃ちょっとを表示している。猫も寒さに耐えられなかったのか、自分のベッドを出てきて私にぴったり寄り添って寝ている。よく見ればベランダにつながるサッシ戸を開けっ放しにして寝ていたのである。寒いのもあたりまえだ。なんで開けっ放しだったかは記憶が定かで無い。

それでも世の中はほぼ冬に向けて足早に変化しつつあるのだなと体得したので、今日は掃除も兼ねてリビングにコタツを出すことにした。何分にも築30年近いオンボロマンションなので、床暖房などという洒落たものはついておらず、仮に付いていたとしても、老後生活が破綻しないかと不安で、日々しみったれな暮らしぶりが定着しつつある昨今、そんな燃費の悪そうな暖房手段を使うわけもない。

いつもより5分は多めに掃除機をかけた後、テーブルを片付けて代わりにコタツを出す。狭い家なのにコタツの下に敷いていたカーペットやコタツ布団一揃いを発見するのに約30分以上かかり、おまけに発見したそれらの用具は、しまうときにそのまんま収納場所に放り込んでいたらしく、猫の抜け毛だらけである。なんとか妥協できるところまで掃除機で抜け毛を吸い取り、すべての作業が終わったら昼過ぎになっていた。

残り半日となった休日は買い物、料理、洗い物、洗濯などのルーチンワークであっという間に終了。これで5月の連休頃にはまたコタツをしまい、冬前にまた出すことの繰り返しをするんだな。それを今後20回ほどやればというか、やれなくなる頃には寿命も尽きるのか。結局私の人生はコタツの準備と片づけ以上のものではないのかもしれないなと、変に達観する晩秋の落日なのだった。

2014年10月30日木曜日

Trick or Treat!

このままでは10月のエントリーが無くなるという危機感のみからの急遽書き込み。

最近細かな手の動きがぎこちなくなり、キーボードの打ち込みなどが実にやりにくくなった。客観的には震えこそないと思えるのだが、実際には軽く震えがあるらしく、その証拠に電子カルテの記載にしばしば、”っ”がまじり混む。ご存知のように、子音の二重打ちは「っ」と変換されるように大概の日本語変換ソフトは設定されている。

私の場合、「っ本患者はコンッ月初めっごろから意欲っ減退がっ進行し…」てな具合。子音のキーで二重押しを気づかぬ間にしているのである。職場の電子カルテPCの日本語変換アプリがトンでもなく馬鹿なこともあり、気がついたらありえないような記載になっていることもしばしば。

私みたいな肥満傾向のある人間はパーキンソン症候群に悩まさることは稀だと勝手に思い込んでいたんですがね。その根拠は今まで診たパーキンソン症候群の患者にデブはいなかったということだけなんだが。もしかしたらデブのパーキンソン病の初回例というのを自分で演ずることになるのかも。

ここまで書いて表題と無関係なことに気づいた。私の住処の目の前には某大手コンビニが有り、今月中なら店員に"Trick or Treat!"と声をかけるとキャンデイがもらえるキャンペーンをやっているんだそうだ。ほぼ毎日そこを利用する私なのだが、やはり恥ずかしくてそんなことは言えず、いまだキャンディは貰えていない。

まあいいわ、キャンデイなんて欲しいわけでもなし、と自分を納得させているのだが、これは老化に伴う柔軟性の消失と言う奴かもしれない。手の動きのぎこちなさと言い、自覚していない振戦の進行といい、確実な老化所見が増多してきているのは間違いない。ハロウインもまた避けがたい老化といつかは来る死への覚悟を迫る文化的装置なんだなぁと、何故か先走って見当外れに思いこむ晩秋の一日なのだった。

2014年9月21日日曜日

データの見えざる手

Facebookで評判になっていたので、時代遅れになってはイカンとこっそりAmazonで購入。小ぶりの本だったが読み終わるのに結構時間がかかった。と言うのも著者が理系バリバリの人で、統計力学の概念や数式がそこら中で使われており、そう言うのが出てくるたびにWikipediaなんかの解説を読まないとまるきり腑に落ちない内容であったからだ。

著者の矢野氏は早稲田から日立製作所に入社。1993年には「単一電子メモリの室温動作」に世界で始めて成功したのだそうだ。何のことかよく判らないが、多分すごいことなのだろう。ここ10年は「ウエアラブル技術とビッグデータ収集・活用で世界を牽引」してきた人だという(カッコ内は奥付から引用)。この本は後者の中身を素人に判りやすく解説する目的で書かれたものだと思うが、私ごときには判らない部分はやはり判らない。

矢野氏のチームはまず、腕時計状の加速度センサを使って被験者の動きを記録した。そうして一分間の腕の動きの回数とその出現頻度比率の関係を見たところ、比率を対数軸で表せばきれいに右肩下りの直線に乗ることを見出した。これは分子のブラウン運動を観測した時の結果と同じなんだそうで、統計力学ではボルツマン分布として知られるものであるそうな。

この辺りで私なんかは「は〜そうですか」と棒読み感想を述べるしかないが、著者によれば、これは人が自分の意志で自由に行動を決めていると考えているが、じつはマクロ的には我々の行動は普遍的な法則によって導かれている事を示しているという。ミクロ的意志や思いを知らずとも、マクロ的な人間行動の分析は可能であるとも。

私らの商売をしていると、ああ、新手の行動主義ですかと思ってしまうのがイカンところで、その後の著者の主張にもついつい疑いの眼をむけてしまうが、出だしの部分以後は至極判りやすい、個々の人々の動きから見た職場の効率分析の話になる。センサを首からぶら下げる名札にし、動きと位置、人々の相互関係を記録し、生産性との関連を見る。あるコールセンターの事例では、休み時間の賑やかさが案件処理効率と明らかな相関があった。

相関を見る時、事前に仮説を立てないのも重要らしく、大量のデータから相関を発見するのは日立が作ったデータ処理システム自身だそうである。著者たちはあるホームセンターでの分析で、販売従業員の立ち位置と売上の関連を見出したが、その最適位置というのは、およそ常識的に予測することが出来ないものであったという。

こうした客観的なデータに加え、質問紙法による主観的内容を組み合わせれば「幸せ」というものも測定できるのではないか、というのも著者の主張で、それによれば効率的に運営されている職場では従業員の幸せ自覚度は高く、その企業の生産性や収益性も高いのだそうである。労働者が幸せなら企業も儲かるということである。

日頃、青息吐息の経営状態の会社から、無理難題を押し付けられて不平不満に満ち満ちた生活を送っている人々(日○の社員も結構いるような…)の愚痴を散々聞かされている立場からは、それが本当ならいいねと心から思う。労働と幸福が同じことを意味する社会が実現するよう、著者のチームの今後のさらなる活躍を期待するものだ。

2014年8月27日水曜日

やがて消え行く我が身なら

本箱の片隅に忘れられていた池田清彦のエッセイ集、「やがて消え行く我が身なら」を発見。侘び寂びの極致かと思える題名は、秋雨のはしりのような冷たい雨の降る日に読むにはまことにふさわしいと数時間で読了。

ここのところ村上春樹ばかり読んでいて、赤裸々な性と生の描写にいささか辟易しかけていたのもあって、池田氏の軽妙というか、投げ遣りというか、面倒くささとやる気のなさが力強く伝わってくる文体に心安らぐものを感じてしまう。

氏は明石屋さんまが司会をやっている「ホンマでっか!TV」のメインコメンテーターをつとめておられるのでご存じの方も多いであろう。普段はTVをほとんど見ない私も、あの番組だけは3回に1回ほどは見ている。お目当ては池田氏その人。昔、この人の「構造主義生物学」という立場の著書をほとんど読みつくしたことがあるのだ。どんな風貌の人なのだろうと思っていたら、大滝秀治とほとんど区別がつかなかった。しゃべり方はまったく違いますが。

なかなかの特異的学究なのだが、どこか脱力したところのあるその学問的態度も好ましければ、私が自分なりに精神症状や対人関係病理を構造主義的に捉えようとしてきた努力をより一般的な立場から解説してくれているように感じたのがハマった原因。私の構造主義的精神医学は手抜き(効率的とも言う)臨床をすすめる上で実に役立ったが、ねっからの怠け者である私はまとまった形にして発表することは結局出来なかった。

さて、「やがて消えゆくー」の内容であるが、他人の権利を侵害しない限り、人は好きなことをする自由があり、国家や社会はそれを守る制度を作るべきだというリバタリアン(オバタリアンではない)としての池田氏の視点から、様々なことに触れたものとまとめるしかない。といっても彼の生物学者としての基本になっている虫取りの話とか、生と死についての話題が多いのは当然。

人はいずれ死ぬのだから、今日を面白く生きることに傾注しよう。金をためたり仕事をしたり、拳を振り上げて人に自分の情緒を吹き込んだりするヒマなんかないよ、という結論につながる話が最初から最後まで目白押しと思って頂ければいい。そもそも「面白い」とはどういうことかという疑問にも、たしか答えていたんではなかったかな。もちろん、そんなものは人それぞれなので、多少はぐらかされるのは致し方無いけれど。

2014年8月3日日曜日

1Q84

休日約3日を消費して村上春樹の”1Q84"を読み終える。なんで今頃5年前のベストセラーを読んだのかというと、アマゾンの古本コーナーで三冊セットが安く売られているのを見つけたと言う単純な理由。

私は村上春樹の絶大なファンと言うわけではないが、読めば確実に面白く、それなりに考えさせられるところ大な作品を生み出し続けている人だとは認識している。しかし社会現象的に売れる理由まではわからない。古本や文庫で安く買えれば読んでおこうと思う程度。

2009年にこの本が出た時、私は題名を”IQ84"だと勘違いし、やや低めに位置する知的能力のフイルタで見る世界の相貌といった趣向の小説なのだろうと勝手に決めていた。よく見れば一字目がIではなく1であった。活字のニュースだけ見ているととんでもない間違いをすることもある好例であろう。

”1Q84"には当然ジョージ・オーウェルのディストピア小説"1984"も下敷きになっているのだろう。ビッグ・ブラザーならぬリトル・ピープルなんてのが出てくるとこからもそう予想して読んでいったのだが、ユートピアを求める団体との関係が大きなモチーフになってはいるものの、それがメインのテーマではないようだ。

一言で言えば間違って入り込んでしまった世界からの脱出譚というパラレルワールド物SFだ、と言うのはあまりに乱暴なまとめになるが、その活劇ストーリーを追いながら個々のシーンでの村上春樹独特の洒落た文体と描写を楽しめたので、まあ充分以上の商品価値を与えてもらえたことになろうか。

疑問点を上げれば、なんで作者はそう必然性があるとも思えないのに、あれだけ克明なポルノ描写を重ねないといけないのだろうかという点。私のような純情老人見習い期をのほほんと過ごしている読者には、そこがいささか居心地の悪さを感じさせるところである。まさか、人がコソコソせずに堂々とポルノを読めると言う理由でベストセラーになったのではないだろうね。

2014年7月20日日曜日

抜け目のない未亡人

チケットが余ったからと、友人から只で提供してもらえる事になり、それも土曜日の夕方というグッドタイミング、遠慮もなく久々の観劇に出かけた週末である。

場所は新国立劇場。新宿駅から京王新線でひと駅の初台駅から専用通路があるというリッチな作り。箱物文化をバカにしてはいけません。便利さ故に早くつきすぎてしまい、劇場内のイタリアンレストランでまず夕食。

大層な名前がついた広いレストランなのだが、客がいない。悪い予感というか、デジャブ感にとらわれる。出てきた料理をひとくち食べて、あまりの不味さに思い出した。この劇場に来たのは二回目で、初めての時もこのレストランで食事をし、その不味さに辟易したのをころりと忘れていたのだった。

おのれの記憶力の衰えに悪態をつきつつ友人と落ち合い、劇場内へ。席は一回ホールの最後方だが広い舞台を見渡せる絶好の位置である。小劇場のテント芝居なんかでは席に収まること自体に多大の苦痛と困難があるものだが、さすが新国立劇場、座席も実に快適。

お芝居は18世紀イタリアの喜劇作家カルロ・ゴルドーニの作品をかの三谷幸喜がアレンジしたもので、18世紀のシチュエーション・コメディをどんな風に料理するのかが興味あるところ。昔々、ミラノ・ピッコロ座という劇団によるゴルドーニの芝居を観た時には(TVで観たんだけれど)、狂言廻しの要となる道化役、アルレッキーノ役者の身体能力に驚嘆したものだった。その時の驚きが幾らかは再体験できるかなという期待があったのだが、結果としては少々微妙であった。

夫を失ったばかりの美しい未亡人に4人の求婚者が恋の鞘当てを繰り広げ、未亡人も彼らの本心を知ろうとベネチア仮面舞踏会を利用して策略をつくすという元の話を、三谷はベネチア映画祭を舞台に、夫の死を期に再復帰を狙う往年の大女優(大竹しのぶ)と、4人の映画監督による勧誘合戦に置き換えている。判りやすくなって宜しいとも言えるが、翻案とはいえどうせ古典作品、不自然なところがあるのは仕方なく、なんだか違和感が残るのは致し方無い。

大女優や監督たちが泊まっているホテルの支配人代行のアルレッキーノを演じた八嶋智人は、八面六臂の活躍で物語を進めていくのだが、やはりピッコロ座の道化役者と比べてしまうので迫力に欠けると言わざるをえない。まああれだけ頑張ればよしとするべきか。細かなことはあれ、座席の快適さ、俳優陣の多彩さ、何よりチケットが只だったということが最大の理由で、まずまず楽しめた週末の夜だった。

2014年7月1日火曜日

誕生日

Googleの画面ロゴがまた変わっており、マウスオンしたら私への誕生日祝いのメッセージが出るようになっていた。そういえば昨年もこれに気がついてなにか書いたような気がする。

最近、日々そのものが過ぎていく感覚が何故か遅くなり、ましてや給料日が来るのはいつのことなんだと思わせるほど一ヶ月までは長いのだけれど、2〜3ヶ月ぐらいのまとまった時間になると、すぐに過ぎ去ってしまうという不思議な時間感覚にとらわれるようになった。ましてや一年なんかあっという間である。

歳を取れば時の過ぎるのが早くなるというのは誰もが言い、たしかに私もそう感じるのだが、短い時間に関しては逆に感じるようになったわけである。仕事場でふと暇になり、30分後に別のスケジュールがあるなんて時、どうその30分を潰すか困惑してしまうこともしばしば。

読みかけのミステリ小説をポケットに入れておくというのも一時やってみたが、あまり人前で堂々とやれることでもなく、そう面白い小説が沢山あるわけでもないので、すぐにネタ切れになってしまうのが欠点。「カラマーゾフの兄弟」でも読めばかなり時間潰しは出来そうだが、それはちょっとね。

とにかく、時間感覚の非直線化という奇妙な現象が、ボケや老人性精神障害の前兆でないことを祈りつつ、日々を何とか乗り切っていくしかない。多分あっという間に来年の今頃がやってきて、また同じようなことを書くことになるのだろう。それがとんでもない楽観だったのだと思うことにならないよう、ささやかな現状が維持されることを念じるしかない。

2014年6月23日月曜日

ジャガーの眼@新宿花園神社

昨日ははるばる新宿花園神社境内まで、唐十郎の「ジャガーの眼」を観に行く。演ずるのは金守珍率いる新宿梁山泊の面々。唐自身が主催していた状況劇場に長らく参加していた金が、当時の演技演出をある種のこだわりで再現をしようとする劇団である。

いままで3回ほどこの劇団の芝居は観てきて、ここで感想を書いたものもあるのだが、正直言って芝居自体に感服したと言うよりは、60年代に始まる小劇場運動のノスタルジアを感じ取るために観に行ったというのが本音。まあ、芝居自体は理屈抜きに面白いのだけれどね。役者も差はありつつもこの前に観た劇団よりはかなり上手。

今回は特に唐十郎の息子である大鶴義丹と異母妹である大鶴美仁音の共演というミーハーな興味もあり、日曜日の夕方というちょっと厳しい条件ながら観劇に望んだ次第。芝居そのものは1985年に初演されたもので、唐のライバルというか盟友というか、「天井桟敷」という劇団で唐と同時代を競った詩人にして演劇人、寺山修司の死後2年に唐が捧げた追悼演劇という形になっている。

とは言いつつ、どこが追悼であるのかは観ていてもさっぱり判らず、そういえば寺山修司好みのテーマ、美少女の人形とか、宝塚風男装の麗人などが出てきているのかなぁという程度。寺山の晩年、尿毒症による軽度意識混濁のせいなのか、街角で覗き行為をして逮捕されたという事件があり、この芝居の一連の主題になっている「特殊な視線を持つ眼」の前提になっているような気もしないでもない。あんまり「追悼」になっているようにも思えないのだけれど。

何であれ、自分たちの席の後ろの方には唐の元妻であり、大鶴義丹の母である李麗仙も発見出来たし、唐兄妹の共演も観られたしというわけで、唐十郎の正統追随者と彼の血族が醸しだす雰囲気にたっぷりと浸り、かってのアングラ小劇場のノルスタジアを再体験し抜くことが出来た日曜日の夜なのだった。

2014年6月2日月曜日

水族館劇場「嘆きの天使」

友人から一週間ほど前、水族館劇場という聞いたことのない劇団が三軒茶屋近くの神社の境内でテント公演をするから見に行かないかというお誘いがある。日曜日の夕方という日程に多少難点はあったものの、どうせすることもない身、ついていくことにした。

はじめに書いてしまうのだが、この劇団、出自は博多方面にあるらしい。それと関係があるのかないのか、とにかく時間感覚がのんびりしている。まず夕方5時半に集合して整理券を貰い、座席を確保する。芝居小屋周辺でプレイベントが始まるのがなんと7時。

お神楽みたいな出し物に始まり、芝居の中身のさわり部分がごちゃごちゃと繰り広げられ、やっと小屋に入場。実際に芝居が始まるのはほとんど8時である。舞台は10時頃には終わるのだが、何だか夕方から半日ずっと芝居に付き合っていた気分だった。

芝居の中身はというと、なんとこれが永山則夫を鎮魂する話なのである。いったい、この芝居を見に来た連中の何割が永山則夫を知っているだろう。手法は60年代後半以降のアングラ芝居の常套手段、種々のイメージの重ねあわせというやつ。時代や権力にまつろわぬ、漂泊の民の歴史の一コマとして永山の悲劇をかさね合わせていくのである。正直言って切り口に手垢がつきすぎていて今ひとつ。

その手垢を洗い落とす手段というわけなのであろうか、この劇団が用意したものは実に大掛かりな大道具。流れ落ちる水、吹き上がる水、水、水、水のオンパレードである。惜しむらくはそれが要所で時々無意味に溢れだすばかりで、余りイマジネーションを掻き立てる方向に繋がっていないのがまことに残念。

こんな無駄なことに(ゴメン)、命をかけて頑張っている人々がいるんだなぁ、ひょんなことから努力が報われるようなことになればいいのになぁと、そればかり念じながら深夜に帰宅し、疲れ果てて寝てしまった。それにしても、あれは噴水劇場ではあったが、水族館劇場ではなかったなというのが寝付く前の最後の感想。

2014年5月6日火曜日

夜毎に石の橋の下で

連休は結局近くのスーパーに買い物に出かける程度でほとんど家に籠って読書三昧。まだ出しっぱなしだったコタツを片付けるという大作業もするにはしたが、皮肉にもその直後から低気温の日が続いたのには参った。ダウンジャケットでは暑いし、フリースでは頼りないし、まことに過ごしにくい連休だった。

今回の読書テーマはヨーロッパ。何だと言ってはフランドルあたりから東欧の辺りを彷徨うのが好きな友人が薦めてくれた19世紀末プラハ出身の幻想作家、レオ・ペルッツの作品が3冊。それと以前に同じ人から薦められながら放り出したままだったW.G.ゼーベルトというノーベル賞候補を噂されながら早世した作家の作品が一冊。さすがに4日もあったので何とか読めた。

さてまずレオ・ペルッツの「夜毎に石の橋の下で」から話を始めたい。時は16世紀末。所は神聖ローマ帝国の当時の首都プラハ。私は受験で世界史を選択しなかったのであまり真面目に授業を受けておらず、神聖ローマ帝国については、教師が「神聖でなく、ローマでもなく、ましてや帝国ですらない」と言っていたのしか覚えていない。とにかく諸侯の力関係でいつもゴタゴタしていた国だったようですな。首都もあっちに行ったりこっちに来たり。

アルチンボルドという画家が野菜や果物で肖像画を描いたので有名なルードヴィッヒ二世が統治していた時期が、ちょうどこの小説で書かれている時期と重なる。皇帝は統治能力に乏しいというか余り関心がなく、もっぱら美術品蒐集に関心を向けており、宮廷の財政は火の車となっていた。そのためか皇帝は魔術と錬金術に解決を求め、怪しげな詐欺師紛いの人物が宮廷に出入りしていた。(中にはケプラーとかティコ・ブラーエみたいな本物の科学者もいたけど)

ある日、皇帝は街で美しい女性と出会う。それがユダヤの豪商モルデカイ・マイスルの妻である事を知った皇帝は、高徳のラビにとりなしを強要する。ユダヤ人のプラハからの追放の脅しに屈したラビは、彼らが夢の中で逢瀬を重ねられるべく幻術を手配する。しかし、それが神の怒りに触れ、ユダヤ人街には子供たちだけが斃れるペストが蔓延することとなる…。

軽いタッチのコメディかと思って読み始めると、予言とその成就、運命とそれへの対峙の物語として、したたかなボディブローを喰らう一品。やはりヨーロッパ侮りがたし。

2014年5月1日木曜日

バルテュス展


本日は大型連休を更に彩ってくれるデューティ抜きの平日休みと言うまたとない日なので、ぼんやりすごすのも勿体ないと、はるばる上野の東京都美術館まで出かけ、開催中のバルテュス展を鑑賞。

バルテュスについて私の知っていることは乏しく、シュールリアリストたちとの付き合いが多かったのに自分は具象にとどまったとか、歳を取ってから若い日本人女性と結婚したとか、猫をよく描いたとかいう程度の下世話なものばかり。

展示はおおまかに4っに分かれており、一つ目はバルテュスにとっての「青の時代」と言える、何だか印象派のしっぽをぶら下げているような10代から20代初めの作品群。初々しくてなかなかいい。

作風はだんだん艶かしくなり、悪く言えばスキャンダラス、もっと悪く言えば芸能雑誌のイラストみたいな感じになるのだけれども、私のような俗物にはこの時代の作品群が一番しっくりくる。上の「夢見るテレーズ」なんて、賛否両論、喧々諤々だったらしいが、いいじゃん、ロリコンと言われたって。

その後彼はブルゴーニュの城館にこもり、風景画に熱中することになるのだが、きっと画商たちはのんびり牛が歩く森の風景の絵なんかを前にして慌てたことだろう。やっぱバルテュスは少女だ、ということでモデルとして義理の姪が送り込まれたりしているが、スキャンダラスさは消えてさらに洗練された物になっている。

日本人女性と結婚して浮世絵風の絵-私には更に古い絵巻物風に見える-を書いたりしているのをどう評価するのかは少々私には荷が重い。何となく才能の無駄遣いのような気がしないでもない。それと、この人は具象表現を貫いてきたわけだが、これだけの作品を並べて鑑賞して判るのは、やはりそれは象徴的具象なのだということ。妙な格好の物を書くことだけが日常性を超える方法ではないようだ。

2014年4月27日日曜日

サイド・エフェクト

日曜日なのに、法定義務のカルテ所見記載当番に当ってしまい、ほぼ半日出勤。帰って掃除と洗濯をすれば他にやることもなく、仕方なくiTuneストアでビデオを借りて視聴。今日は精神科医物スリラー、「サイド・エフェクト」。

「サイド・エフェクト」とは副作用のことで、主人公の精神科医が自分が処方した抗うつ剤の、思わぬ副作用による騒動に巻き込まれるという、人ごとではないお話である。とても楽しく観られるような内容ではないが、たまには冷や汗が出るような話もよかろうかと観てみる。

28歳のエミリーは株屋の夫がインサイダー取引で収監されたストレスからかうつ状態となり、治療を受け始め、一旦は回復していた。しかし夫が釈放されてからまた再発し、バンクス医師を受診する。一般的な抗うつ剤は副作用ばかりでさっぱり効果がなく、エミリーは友人が使っていた新薬を使うように希望する。

新薬は切れ味よくエミリーの状態を改善したが、夢中歩行という副作用が出現する。夜中に料理を始めて、夫が話しかけても返事もせず、後でまったくそれを記憶していない。バンクス医師は薬物中止を提言するが、エミリーはここまで良くなったのだからと認めない。夢中歩行中の行動が妙に趣旨一貫していて、一寸違和感があるのだが、結局それが鍵であることが判るので、少々興ざめ。

エミリーはある日もうろう状態で夫を刺殺してしまい逮捕される。バンクス医師も、副作用を知りながら漫然投与していたことで法的責任を問われかけ、マスコミからも厳しく追求される。さてこれからどう展開するのか、まさか向精神薬はすべて悪というサイエントロジー系のキャンペーンになったりすることもないだろうし、スリラーとしての展開があるとしたらあれだけだろうな、と言う方向に話はどんどん進む。

どんでん返しとは言えない方向で全然違う向きに進み、どうも検察や弁護人の法的取引もそれを手助けしているようで、バンクス医師の窮地がどうなるのかというハラハラドキドキがどこかに消えてしまう展開になるのがまことに残念。最後、エミリーに待っている運命も何だかよく判らない。前医役のキャサリン・ゼタ=ジョーンズは悪女顔過ぎて、こういう意外な展開を狙った物語には向かないような気がする。

エミリー役のルーニー・マーラ、どこかで見た人だと思ったら、ハリウッド版「ミレニアム」でリスベット・サランデルをやった人だったんですね。タトゥーとピアスじゃらじゃらのイメージだったので全然判らなんだ。

2014年4月24日木曜日

ロング・グッドバイ

私は滅多にテレビを観ないのだが、たまたま先週土曜日の夜にニュースでも観ようかとテレビをつけたら、NHKでレイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」の翻案ドラマが始まるところであった。

舞台をロスから東京と思しき当たりにうつし、時代設定はほぼ同じ1950年代初め。当然登場人物は皆日本人。フィリップ・マーロウ役は浅野忠信演じる増沢磐二と言う私立探偵。テリー・レノックス役は綾野剛と言う若手。結構有名な俳優らしいが私は全然知らない。

正直言って大丈夫かいなと思って見始めたのだが、これがなかなかサマになっている。適度なお洒落さと汚れを共存させた戦後都市の造形がTVとは思えぬ重厚さだし、音楽も決まっている。5回で完結するらしいが、もったいないことである。DVDが出るなら買っておきたいと思わせる出来。もちろん、一回目の質が今後も維持されればの話だが。

ロング・グッドバイは「長いお別れ」と言う題名で清水俊二によって原作発表直後には訳されていたが、2007年にかの村上春樹が新しく訳し直している。私がチャンドラーにハマったのは大学生の頃で、清水訳にどうもあきたらず無謀にも原著に挑戦したが、当然のごとく途中で挫折している。

正確さという点では後から訳した村上春樹訳の方がかなり上なのは当たり前で、何度もノーベル賞候補が噂される作家のこと、ブンガク的雰囲気も素晴らしいのだが、ことハードボイルド文体と言う点になると清水訳が捨てがたいと思うのは、初めにそちらを読み、何度か繰り返して読んだからだろう。

最も私は、読むたびに筋も登場人物も忘れ、いつも新鮮な感覚で物語に接するばかりか、乏しい記憶の中ではテリー・レノックスと大鹿マロイがごっちゃになってしまったりするので、文体だの訳の正確さなんか関係ないんですがね。

2014年4月13日日曜日

ナイン・ドラゴンズ

どうも最近まるきり何もやる気が出ず、仕事はなんとか仕方なくこなしてはいるものの、休みの日など家の外にでるのも面倒で、身の回りのことを済ませるとただぼんやりと時間を過ごすばかり。これではイカンと、せめてミステリでも読もうとアマゾンでマイケル・コナリーの新作「ナイン・ドラゴンズ」を注文。結局上下2巻を一日で読んでしまった。

コナリーは毎年一作は長編を出す多作家だが、翻訳が間に合わず、この「ナイン・ドラゴンズ」も新作と言いながら2009年の作品である。まだ6作ほど未翻訳があるがそれらの出版は何時の事になるのやら。一度待つのに疲れて原著を買ったことがあるが、さすがに全部は読みきれなかった。

コナリーのミステリは翻訳されたものは全部読んでいるのだが、なんでそんなに気に入ったのかというと、メインのシリーズが、ヒエロニムス・ボッシュという名前のロス市警刑事を主人公にした警察小説だったから。あの初期フランドル派の画家と同じ名前なのである。聖書から題材をとって、化け物や堕落した人間たちであふれた特異な絵を描く画家である。

もう何年前になったろうか、マドリードのプラド美術館で彼の代表作「快楽の園」を、その意外に小さなサイズに驚きながら、長い間眺めていたことを思い出す。そこに描かれた快楽の罪に浸る人々はただ恍惚に酔いしれており、地獄で化け物達に永遠の責め苦を負わされることなどまったく意に介していないように見えた。中世の人々もこの絵を見て罪におそれおののくというより、快楽への渇望に浸っていたのではないかと思ったものだった。

そんな名前の刑事が出てくるぐらいだから、シリーズに出てくる犯罪者たちは一筋縄ではいかない罪への耽溺者ばかりで、それに対してボッシュが独自の論理と倫理を駆使して、警察組織の自己保身勢力に足を引っ張られながらも戦っていくという内容だった。読後のカタルシス感はまことに爽快で、現代ミステリでは一番のお気に入りなのである。一連の小説にはボッシュシリーズから派生した別主人公物もあり、それはそれなりに面白いのだが、やはりコナリーの真骨頂はこのヒエロニムス・ボッシュ刑事シリーズと言える。

今回は酒屋の中国系老店主が射殺されるという事件が発端となり、ボッシュはアジア系犯罪ユニットの中国系刑事と協力しながら捜査を進めていくことになるのだが、店主が香港の犯罪組織・三合会にみかじめ料を払っていたことが判明し、集金係の男に疑惑がかかる。その過程でボッシュにはアジア系の訛りで脅迫電話がかかり、捜査情報の内部漏洩疑惑が生じる。

この時点で、あれ、警察内部以外にももう一つルートがあると普通は考えるのではないかなと私は思ったのだが、何故かボッシュは疑心暗鬼となり、中国系刑事や協力する所轄署アジア系警察官まで疑い始める。しかも、ボッシュの別れた妻と13歳になる娘は香港で暮らしており、ボッシュのもとには娘を拉致したというメール映像が送られてくる。

ボッシュは三合会による誘拐と確信し、メール画像の分析から娘の居場所を推理し、単独で香港に向かい、別れた妻の恋人でもある男と協力しながら娘を救出しようとする…、というのが大枠の内容。ネタバレになるのでこれ以上は書かないが、大きな犠牲を払いながらも見事娘は救出され、事件も完全に解決する。いささか松竹新喜劇風の「偶然の一致」と言う要素が多いのが難点で、私が前半に感じた疑問が結局この事件の鍵だったことも判る。

実質一日の間に太平洋を端から端まで往復して、事件を解決に導いたボッシュの活躍は素晴らしいのだが、今回は正直いってあまり読後のカタルシス感は高いものではない。ボッシュが警察内部の情報漏洩を疑い、事件をわざわざ困難なものにしてしまった理由は、ただただ中国というか、アジア全般に対する不信と偏見にすぎないのである。娘の誘拐ということを除けば、今回の事件はボッシュとは無関係に、あるハイテク捜査技術だけで解決できている。

その意味では、今回のボッシュの活躍は娘を東洋から西洋に奪還したと言う一点であり、確かに娘の命は救われはしたのだが、いささか複雑な思いに捕らわれてしまう結末だった。題名のナイン・ドラゴンズは香港の九龍半島から取られたらしい。中日ドラゴンズのナインとは無関係なのでご注意を。

2014年3月23日日曜日

万獣こわい

久しぶりに東京まで観劇に出かける。場所は渋谷のパルコ劇場。本日の出し物は「あまちゃん」の脚本家として知られる(と言って私はそのドラマ見たことないんだが)宮藤官九郎作の「万獣こわい」。なんでも“ねずみの三銃士”と自称する生瀬勝久・池田成志・古田新太らのユニットによる企画らしい。2004年に「鈍獣」、2009年には「印獣」という芝居をリリースしているとか。

題名だけ聞くと江戸川乱歩原作かと思ってしまうので、今回は落語ネタを加えてひねってみたのかなと推測したのだが、当然のことながら彼らの今までの芝居を見ていないのでなんとも言い難い。何であれ、この手のアングラとミーハー系商業演劇の境界を狙った芝居群には多少の関心がある方なので、友人から誘われてホイホイと付いていった訳。

落語の「饅頭こわい」の高座シーンから始まる芝居のテンポは軽妙で、複数の舞台を同時に使って進行させるドラマ展開も判りやすい。中身は2012年に発覚した尼崎監禁連続殺人事件をモデルにしたと思われる、同居者たちの人格支配による殺人の連鎖をテーマにした凄惨とも言えるものなのだが、極限状況の圧力が高まった場面から爆笑を紡ぎだす手腕の見事さには些かならず感心してしまった。

それなのに、正直言って観劇後の気分はあまりいいとはいえない。劇的カタルシスがないのである。疑心暗鬼状況をうまく作り出し、それを利用して人を支配して犯罪行為に自ら染まらせることに長けた人がいるのですねぇ、普通の人はあれには負けてしまうので、いいように振り回されながら、せめて笑っちゃうしかないですねぇ、で終わっていて、肝心の悪意に満ちた「一番怖い人」を笑いの対象にしていないのである。

せめて落語のオチにある「渋茶が一番怖い」に当たる、悪意の腰を砕けさせるようなエピローグがあったなら、この芝居は犯罪爆笑喜劇として演劇界の歴史に残るものになったのではと思わなくもない。

2014年3月6日木曜日

確定申告

ズルズルと引き延ばしていたが、今日ついに覚悟して確定申告のために税務署に出かける。結構朝早く出かけたつもりなのに、着いてみれば既にディズニーランド並みの行列ができている。一時間近く並んだ末に、やっと受付に到着。こちらが請求できる経費は生命保険費と医療費ぐらい。結構ぼったくられるだろうと覚悟して会場のパソコンに向かう。

ちょっと前までは自宅でe-Taxというオンライン申告をしていた。亡き妻の医療費も高額だったのでそれなりに還付もあった。具体的メリットがあると真面目に申告もするが、それがなくなるとだんだんいい加減になり、PCの機種を変えてアプリが使えなくなり、利用者番号やパスワードも忘れ、しばらく途絶えてしまっていた。

なにせe-Taxを利用したせいか、申告の案内も来なくなるのである。必要なことなら催促ぐらい来るだろうと高を括っていた。それが少額とはいえ、一部の年金が振り込まれるようになって、手元に数枚の源泉徴収書が集まり、それらに全て「申告しろ」と強要する文書が添えられていると、さすがの私も遵法精神を発揮するしかなくなったというわけ。

多分、不労所得ともいえる年金の半分ぐらいは召し上げられるんだろうなと覚悟して作業を進めると、結局ほぼ全額に等しい追加納税を指示される。不労所得許さずという、国家の意志を感じる結果である。ちゃんと働け、ズルするな、ラッキー収入は世のため人のために差し出せということであろう。国民を崖から突き落として力を引き出そうという、ライオンの如き国家の親心に感激するしかない。

今月17日までに支払えと言われたが、どうせ払わないといけないのならと、税務署の帰り、銀行によって税金を納付。納税という国民の義務を果たし、意気揚々と帰宅と言いたいが、老後の蓄えがまたこれで減ってしまったという当惑が正直なところ。来年は何があって還付されるよう、あらゆる手段を尽くそうと決心する。

2014年2月27日木曜日

ヴァインランド

またも半月かけてトマス・ピンチョンの第4作目の長編小説「ヴァインランド」を読み終える。先月、おなじピンチョンの「重力の虹」をやっとこさ読み通したばかりだというのに、懲りないというか、我ながらご苦労なことである。

最も「ヴァインランド」の方は小説としての長大さと難解度はかなり「重力の虹」を下回り、読みやすいと言えないこともない。それなのに半月もかかってしまったのは、60年代から80年代なかばという時代設定のもと、やたらに引用されるポップやスタンダード・ミュージックのトリビアを実感しようと、しょっちゅうYouTubeを参照しながら読んでいたからに他ならない。

読みやすいとは言うものの、予告なくしょっちゅう入れ替わる記述視点とか、時間軸の移動は相変わらずで、同じ人物が別の場所、別の時間で一連の動作をしているように勘違いする場面も数多い。今回目立つのが夢と現実の混交で、どこからが夢と現実の境目なのか判らなかったりする。藤原定家の「春の夜の 夢の浮き橋 とだえして峰に別るる 横雲の空 」の心境。作者は本当に定家を意識してたりして。

話の中身は60年代のカウンターカルチャー運動の活動家女性と、彼女を愛人かつ協力者にしたてていたFBIの辣腕検事の関係を軸にして、彼女を助けようとする女忍者、その忍者に間違われて秘技「一年殺し」を掛けられそうになったのが縁でパートナーとなるカルマ矯正を仕事とする元特攻隊員の妙な日本人、そして彼女の元夫とその娘、その元夫にまとわりつくTV依存症のメキシコ人刑事などが織りなす話、としか要約できない。多分何だか分からぬままに終わるんだろうなと思っていたのだが、それなりにハッピーエンドと言えないこともない結末が用意されていたのが意外だった。

相変わらず、意味ありげに登場しながら何のこともなく消えていくキャラ群も数多い。まあ、ミステリー小説みたいに最後はすべて種明かし、なんてことは現実にはないわけで、この饒舌と混乱と矛盾に終始する小説こそ本来の意味での「自然」を体現しているのかもしれない。

2014年2月14日金曜日

"Fake Snow"陰謀説

米国では最近「政府は地球温暖化問題から国民の目をそらすため、作り物の雪を各地で降らせている」という陰謀告発が流行っているそうだ。

YouTubeには庭に積もった「雪」が本物ではないことを証明していると称するホームムービーが数多くアップされている。”Fake Snow"で検索されたい。

何故本物でないかと言えば、100円ライターで雪の塊に炎を当てても溶けないというのがその理由。そのまま炎を当て続けていると「雪」の表面は黒くなってきて、悪臭がするのだそうだ。政府機関がプラスチックの原料を空から撒いて、一見雪のように見せていると言うのである。

雪はたっぷり空気を含んでいるのでガスライター程度の火力ではなかなか溶けず、溶けても周りの雪に染み込むので、氷を溶かすときのように水がぼたぼたあふれるようなことはない。黒くなるのはライターの炎のすすがついているからで、プラスチックの雪が焦げたのではないのは誰にも判ること。悪臭がするのはガスの匂いであるのもこれまた道理。

そんな当たり前のことを無視して、政府の陰謀を告発しても、環境問題に関心がある人々の資質を疑わせる材料になるだけで、むしろこういう主張自体が一種の反環境問題陰謀に加担する意図的な動きなのではないかとまで思ってしまう。

救われるのはYouTubeにもこうした道理を欠いた偽雪陰謀論を批判するムービーがほぼ同数近くアップされていることで、世の中騙されやすい人ばかりではないと一安心。日本の首都圏でも大雪が続いているが、「あれはプラスチックの偽雪だ」などという主張が我が国では全く見られないのは、ひとまず寿いでおくべきかな。

2014年2月6日木曜日

エリジウム

今日は平日休みだったのだが、何時職場から呼び出されるともしれず、何よりあまりの寒さに一歩も家をでることなく過ごしてしまった。

患者さんには外に出て運動しようと勧めているのに、えらいダブルスタンダードである。それを知りつつiTuneで「エリジウム」をダウンロード視聴したのが唯一の対社会的行動。

第9地区」という、宇宙人が地球に難民としてスラムで暮らす作品で有名になったニール・ブロムカンプ監督の第二作目。一作目は逆転発想と言って褒めそやされるのだが、もうちょっと前に同じ発想の映画があった。確か邦題が「エイリアン・ネィション」で、エイリアンが刑事になって、エイリアン移民に関わる事件を捜査する話だった。

そんな訳で「第9地区」にはそれほど新発想という印象はなく、確かに都市スラムの描写は上手だったのかな、と言う印象しか残っていない。その上、この第二作目のスラム映像化はエリジウムという超富裕層が住む宇宙ステ-ションとの対比を目的にしているためか、今ひとつ常同的である。あれなら上野-北千住間の景観のほうが趣がありそう。

脚本はあちこちにかなり穴があり、相当暖かい目で見てやる姿勢が必要で、ありがちなストーリーにつなぐためにはあれでいいよねと、自分で一所懸命納得しないといけない部分が数多い。スラムを撮らせれば言うことなしのこの監督も、近未来超富裕層居住地の描写は今ひとつというにもお粗末。

それでもこの手の映画をを観てしまうのは、マルクスが予言した窮乏化理論、富裕層と貧困層の絶対的分化がそう現実化していないことを確認して、胸をなでおろしたいからなのかもしれない。単に認識が甘いだけなのかもしれないれど。

2014年2月2日日曜日

Groundhog day

今日2月2日は米国とカナダの一部で催される季節行事、グラウンドホッグ・デイである。行事として一番有名なのがペンシルバニア州パンクサトーニー市で開かれるもので、普段は静かなこの町に多くの人が集まり、町外れの木の根っ子に住むグラウンドホッグ(地リスと呼ばれる齧歯類)のフィルを訪問し、冬が後何日続くか尋ねるのである。

その時フィルが自分の影を見たら冬はあと6週間続くが、そうでないと春はすぐそこに来ている、と判定される。この判定が間違っていたことは無いそうで、全米のお天気メディアや物好き人間がこの日、パンクサトーニーに集まり、フィルの御託宣を聞く。要は当日が春先の曇り空の日かどうか、ということがその根拠らしい。

この季節行事の循環する時間というイメージに乗っかって作られたのが1993年のアメリカ映画、「恋はデジャ・ブ」である。原題は"Groundhog day"で、こっちのほうがよっぽど簡潔にして判りやすいのだが、馴染みのない行事名では売れないと判断して、こんな悲惨な邦題になったのだろう。どうせなら「アメリカ節分奇談」ぐらいでもよかったかも。

話は単純で、メジャー指向で嫌われ者の地方局の天気キャスター、フィル(ビル・マーリー)が嫌々グラウンドホッグ・デイの取材にきたところ、永遠に繰り返す2月2日の中に閉じ込められてしまう。様々な努力をするものの、逃れ出ることは出来ない。ビルから飛び降りて自殺してしまっても、結局2月2日の朝6時に元のホテルで目覚めてしまうのだ。

この機会にと、以前から恋心を抱いていたプロデューサーのリタを籠絡しようと様々な努力を繰り返すが、これも全くうまくいかない。何度も繰り返して知り抜いた街中の人々の行動スケジュールを利用して、銀行の現金輸送車の金を奪って、派手な金遣いもしてみるが虚しさは増すばかり。

やがてフィルは繰り返す時間の中で知った町の人々の行動パターンをもとに、彼らに対する無私の奉仕に徹することにする。その結果彼はリタの愛も得て、繰り返す時間もまた普通に流れ始める。そんな他愛もない話なんだが、何故か私はこの映画が好きで、年に3回以上DVDで見る。人が流れる時間を生きながら、繰り返す時間の中に生きているような錯覚を持っていることを、意外な方向から思い起こさせてくれるからである。

さて今年の本家フィルの御託宣は…、と思ってパンクサトーニー市が作っているサイトを覗いてみたがまだ結果が書かれていない。時差のため一日遅れるのを忘れていた。結果は明日追記ということに。まあ、春が近いか遅いかが分かったって、所詮アメリカ北部の話なんだけけど。

追記:先ほど出たばかりのフィルの御託宣は、"Six more weeks of winter". 春はまだまだ先のようです。少なくともアメリカ合衆国ペンシルバニア州では。

2014年1月31日金曜日

オランダ式戦車ブレーキ性能テスト

あちこちにアップされている「オランダ式戦車ブレーキテスト」と言う映像。どんな連中が何時どこで企画構成し収録したものなのかは、さっぱり判らん。

こちらのBBC関連サイトの記事を見るとかなりの準備をしたことは書いてあるものの、5W+Hについては全く触れていない。YahooやAOLでもこの映像に関するニュースを報じているが、事実関係の記載はない。

いくら充分な準備したとはいえ、さすがに戦車が背後に迫った時には3〜4人がビビって後ろを振り向いているのを見ると、さもありなんと思える。映像処理でもなさそうだし、オランダ式肝試しということなのだと素直に受け取っておこう。

2014年1月26日日曜日

Man On The Moon

ジム・キャリーが35歳の若さで死んだ伝説のコメディアン、アンディ・カウフマンに扮した映画、"Man On The Moon."をiTuneのレンタルで視聴。アンディ・カウフマンって誰だよ、と殆どの人は思うだろうし、実は私も数日前までは知らなかった。たまたまYouTubeで映画の断片を見て興味を持ち、全編を見る気になった。

どうも、やしきたかじん氏の死以来、歳の近い人の死に変に敏感になっているようで、カウフマンもずっと前に死んだ人ながら、生まれたのは私の一年前なのが興味を持った理由の全てである。才能に溢れながら35ぐらいで死ななければならない運命を、彼はどうやって受け入れたのか、そんな関心だけで視聴したわけ。

独自のスタイルをもった売れないスタンドアップコメディアンとしてクラブ回りしていたアンディは、ある日辣腕マネジャーに見出される。その場限りのジョークを垂れ流すのではなく、人の感情そのものを操作する新しい笑いを求めるアンディは、次々に問題を起こしつつ人気を得るものの、その過激さのため、ついにはTV界から拒否される事態に至る。そんな頃、彼は自分が不治の肺がんに侵されていることを知るが、周囲の人は悪趣味なジョークだとしか捉えてくれない。病魔が進行する中、彼は長年の夢だったカーネギーホールでショーを開き、死の床につく。

そのカーネギーホールでのショーといい、葬儀の時に流される全肯定的な遺言映像といい、それまでの悪意すら込められた笑いへの追求が急に薄れてしまい。えらく凡庸な内容になってしまうのが少々不満を感じるところ。死の受容はとんがった人をもありきたりに変えてしまうんでしょうかね。

そんな訳で、なんとなく不完全燃焼気味でありつつも、それなりに面白い映画でありました。ジム・キャリーの演技は素晴らしく、その恋人役にかのコートニー・ラブが出ていたのもお得感抜群。何より、「重力の虹」を読んだ直後なので、明確なストーリーの存在というものの有り難さをしみじみと感じた次第。

2014年1月25日土曜日

重力の虹

昨年の7月にトマス・ピンチョンの「LAヴァイス」と言うハードボイルド探偵小説仕立ての奇天烈作品の感想文をアップしたが、それを読むそもそものきっかけとなったのが彼の長編代表作である「重力の虹」という、知る人ぞ知る超奇天烈小説である。実は「LAヴァイス」と同時に買っていたのだが、なかなか読む気にならず、半年間放ったまま背表紙を眺めていた。

正月過ぎにやっと手に取る気になり、実に半月以上かけてやっと読み終えたのだが、正直言って「なんじゃこりゃ」である。とにかく歴史的薀蓄から微分方程式、怪しげな有機化学の断片に、パブロフ派精神医学の新解釈などのごちゃごちゃが、決まったギャグと滑ったジョーク、そしてそれらがノーマル系から変態領域のポルノ記述とともにテンコ盛りされている。

一応ストーリーらしきものはあり、主人公もいる。二次大戦末期、ロンドンにV2ロケット爆撃調査のために派遣されたアメリカ軍将校、タイローン・スロースロップ中尉がその人。彼は職務よりはもっぱらナンパに熱心で、次々にロンドンのあちこちで情事を重ねるのだが、何故か数日以内にその情事現場にはV2ロケットが落ちてくるのである。中尉の勃起痕跡をロケットが追うのか、その勃起がロケット襲来予知なのか。彼の特殊能力を何故か知るある組織によって彼は監視されている。

やがて彼は監視の目を逃れ、休暇先のリビエラから逃亡し、スイスを経て敗戦直後のドイツへ潜入する。こう書くとかなりしっかりしたプロットがあるじゃないかと思われるかもしれないが、この小説では記述の視点がコロコロと変わり、しかもそれが段落ごとに明示されぬまま別の人間の話になっていたり、おまけに時間軸まで違っていたりするので、話の筋を追うのは容易ではない。500ページほどある二段組二巻のほとんどがその調子。

他にも副主人公といえる登場人物は数多く、中尉を監視する組織の中の対立とか、独自にロケットの秘密を追う「黒の軍団」(この連中について説明しょうとすれば更に2段落ほどいるので割愛)とか、ソ連軍や日本軍の情報将校とか、物語とは全く無関係に登場するカミカゼ特攻隊員のおふざけ漫才などが目白押しなのだが、小説を読み終わって判るのが、それらの人々は出てきただけだったということ。様々な謎のようなものがほのめかされるのだが、結局何も解決されることなく何だかわからぬまま消えていくのである。

ネタバレと言う言葉はこの小説にとっては無関係であろうから、あえて書いてしまうと、そのうちスロースロップ中尉もどこかに消えてしまい、最後は時間軸的にもいつだかわからぬロケットの上昇と下降、それもえらく唐突な目標地点に向かう話になるのだが、その理由は全くわからぬまま小説は終わる。もしかしたら丹念に読んでいけば理解できるのかもしれないが、少なくとも私の理解力を大きく超えた小説であったことだけは間違いない。

この後取るべき態度は①懲りたのでもうT・ピンチョンは読まない。②やけくそなので買ってしまった分は全部読み、ピンチョンの専門家のごとく振る舞う。③なかったコトにする。などが考えられるが、多分私は②を選んでしまうんだろうな。

2014年1月9日木曜日

やしきたかじん氏死去

歌手のやしきたかじん氏が数日前に死去されていたんだそうだ。と言っても私は彼についてほとんど何も知らず、そもそもその名前についても「やしき たかじん」さんなのか、「やしきた かじん」さんなのかも知らなかった。まあ、「やし きたかじん」さんや「やしきたか じん」さんでないのは常識的に把握していたけれど。

ちょっと前にある関西の芸人がマスコミにバッシングされていた時、彼がニュースショーのインタビューでギャグを交えた擁護発言をしているところを見たことはある。相手はもとボクシングをやっていたという芸人で、顔は覚えているが名前は忘れた。もともと関西出身なので彼の名前はコンサート予告なんかで見たことはあるのだが、何しろ見ただけでは「やしき たかじん」さんなのか、「やしきた かじん」さんなのかも判らないのだ。苗字と名前の間に、意識的にスペースを開けていなかったようである。

歌手ということなのだが、一度も歌を聞いたことがない。一度は聞いておこうと今日はじめてYouTubeで聞いてみた。そうしたら私が覚えているインタビューでのダミ声とは裏腹のフェミニンな高音で、柔らかい関西弁をうまく使って女心をせつなく歌い上げる持ち歌ばかりなのでいささか驚愕した。ただ、関西弁、標準語を問わず、むさいオッサンが女性の立場に立って唄を歌うというのはどうなのよ、という気持ちがついて回るのは事実である。

東京に対して反発心を抱き、人気が出ても東京キーTV局の番組には出なかったそうだ。私みたいにそういうこだわりが全くなく、昔からの友人たちとは汚い土着系関西弁を喋りつつ、仕事上では標準語を平気で使う人間には全く理解できない態度である。まあ、そのほうが商売になると判断したということなんでしょうな。

何であれ、ひとつぐらいしか年の変わらない人が亡くなられたというニュースは、私のような黄昏世代にはいささか重い知らせである。そのうち自分にもこの巡りが回ってくるのだなぁと思うのだが、まだ何の覚悟もできていない自分にいささか苛立ってしまう。せめて、との思いでコンピュータの壁紙をブリューゲルの「死の勝利」に替えて覚悟への一歩を図る冬の一日なのだった。

2014年1月7日火曜日

アル中の診断基準:禁酒

大晦日、元旦と帰省してきた娘たちと鯨飲大食してしまい、今だに体調が芳しくないので、現在禁酒生活中である。しらふでいると夜が長く、することもないので早寝してしまい、朝の4時前には目覚めるという完全な老人生活リズムになってしまうのが面白く無い。起きてもすることがないのは同様で、仕方なく今まで読みそびれていた長編小説なんかを読んで見るのだが、まだエンジンが掛かりきっていない脳細胞の表面を、活字は上滑りしていくばかりなのである。

そんな時でも、というかそんな時だからなのか、昔の記憶が妙によみがえる。禁酒というと、研修医の頃、アルコール依存症を専門としていた先輩から言われたのが「アル中の診断基準で最も確実なのは、禁酒歴があること」というもの。アルコールに耽溺してしまうと自分で適当なところで切り上げられないので、限界を超えて飲んだ挙句、しばらく酒をやめざるを得なくなるというのだ。

「酒をだらだら飲み続けるのがアル中ではなく、止めるしかないところに追い込まれるのがアル中なのだ」というまことに説得力ある話。残念ながら治療につながる話ではないし、追い込まれた禁酒にしても短期間で「まあ、ちょっと止めてたからいいかぁ」と、更なる飲酒フェイズに移行するのである。この論理で行くと暮れ正月とはいえ、体調を崩すまで飲んで禁酒している私はアル中段階に達していることになる。気になったのでDSM-Vで確認してみたが、アルコール使用障害の基準の中には「禁酒する」というのはなく、中止、制限への失敗が挙げられているのみ。

更にアル中関連の別の記憶。結構中堅になった頃に参加したアルコール関連のシンポジウムで聞いたアル中新理論。超有名大学の内科学助教授だった方が言うには、二日酔いの時には体内にアセトアルデヒドが残っているが、この物質には還元作用がある。二日酔いで冷や汗たらたらと言う状況ではアドレナリンなどのカテコールアミンが多量に分泌されており、これがアセトアルデヒドの還元作用で重合し、モルヒネ様物質が微量ながら体内でつくられ、この自家製モルヒネによる脳神経変性がアル中の原因なのだというもの。

アドレナリンとモルヒネではかなり構造が違うような気がしたが、経験的に二日酔いが覚める時の苦痛と一種の陶酔が入り混じった感覚を思えば、確かにそのような事があってもいい気はした。単なる大酒飲みとアル中と俗に言われる状態は明らかに違うものだ。アルコール自体の障害作用と栄養障害を超える、何らかの本質的な脳の変化機序がそこにあると考えるのも当然であろう。

ところが、このアル中大理論をその後全く聞かないのである。結構ちゃんとしたシンポジウムだったし、珍しく私も質問なんかしたので、寝ぼけて聞いた断片から勝手に創りだしたマボロシ理論ということもありえない。研究環境があれば自分で再検してみたいと思うほどだ、と言うのはさすがに嘘だが、せめて仮説として発表された論文でもあればと色々検索してみたんだが、今だに見つからないのが残念。