2013年12月22日日曜日

BradyさんはBradyになりやすい

「13日の金曜日」の投稿で、英国医学雑誌" British Medical Journal"(以後BMJ)は年末に冗談論文特集をするのが常と書いたが、今年はどうだろうかと確認してみたところ、現在の最新版である12月19日号に2013年クリスマス特集として6つの論文が掲載されていた。

一つ目は「1日スタチン1錠で医者要らず」というもの。英国には「1日りんご1個で医者要らず」と言うことわざがあるらしく、最近万能の効能があるかのごとく喧伝されるスタチン(高脂血症の薬)とりんごの効能を統計的に比較すると言う内容。両者にはほぼ同じだけの死亡抑制効果があることが示されていて、「昔の教えは正しく、かつ副作用もない」というのが結論。スタチン適応拡大論者への嫌味論文ですな。

他には病棟詰め所にチョコレートを置いておくとどのぐらいの早さで消失するかとか、ジェームズ・ボンドの飲酒量が多すぎることへのアドバイスとか、馬鹿笑いすることのリスク警告とか、ネズミとクジラの幹細胞を比較すると、大きさではほとんど区別がつかないと言う報告論文など。今年はちょっと小粒という印象である。

一番おもしろかったのが、題名にあげた、名前が健康に及ぼす影響を検討するというもの。ダブリン市内で電話による調査を行い、Bradyという苗字を持つ人は徐脈性心疾患によるペースメーカー埋め込み率がオッズ比2.27で有意に高かったというもの。Bradyと言うのは遅いという意味で、bradycardiaといえば病的に脈が遅い、徐脈のこと。

Usain Boltが電光のごとく疾駆するように(Boltには電光、稲妻の意味がある)、Bradyさんはその名が示す健康状態に誘導されていくのではないかというのが著者たちの結論。この意見が正しいなら、滝川クリステルには頻脈性疾患のリスクがあるといえますな。(tachyには早いと言う意味があり、tachycardiaなら頻脈)

なお、上のビデオは60年代末に米国で放映されていたシットコム「ブラディ一家」。日本では放映されなかったようだ。なお、このドラマではBrady一家の中にペースメーカー利用者はいない。

2013年12月19日木曜日

新釈「瞼の母」

平日休みの夕方、東京は吉祥寺シアターまで出かけ、鈴木忠志の新解釈による「瞼の母」を観劇。他に「リヤ王」と「シンデレラ」もあったのだが、日にちの都合でこれになってしまった。

鈴木忠志という人も60年代末のアングラ小劇場に出自がある人だが、70年代中頃に」活動拠点を富山県利賀村に移し、もっぱらそこで公演や役者の育成をやるようになっている。いまは自分たちのあり方自体を、一種のコンセプチュアルアートとして世界に発信していることで知られる。

今回の公演パンフを読むと、鈴木は世界を病院として捉えているんだそうだ。病人である劇作家が病人としての人間を観察し、舞台を病院として造形するとのこと。今日観た「瞼の母」も例外ではなく、老人病院か介護施設で余命幾ばくもなく過ごす老婆の幻覚として芝居が展開しているそうな。

主人公の番場の忠太郎は何故かニッポンジンと言う名前になっていて、子を捨てた母親にとっての悔悟の対象にとどまらず、義に厚く仲間を救うために無私の活躍をする理想の日本のシンボルなのである。しかし母親は、20数年ぶりに自分の前に現れたニッポンジンをカタギでないからと言う理由で拒絶する。もとの話がそうだから仕方がないのだろうが、この辺りは何のことやらよく判らない。劇中の外在的なセリフには「母性帝国主義粉砕」なんてのがつぶやかれているんだが、それの寓意というわけ?

そもそも世界は病院ではないし、病院といったって一種のサービス業界でしかなく、鈴木の思い入れに一体何の意味があるんだろうと、40年以上病院でしか暮らしたことのない私は思う。ついでに言えば私は自然とともに生きるというのが大嫌いで、なんで富山の山奥でもったいぶった演劇活動なんかするのだ、アクセスのよい都会でいつも勝負していろと言いたくなる。

何か狙いはあるのだろうが、それが舞台の上でわかりやすく表現されているとは思えなかった。芝居なんて、しょせん本を読むのが面倒な人や物分かりの良くない人に、自分達の考えや主張を面白おかしく伝えるためにあるもののはずだ。能や浄瑠璃みたいな古典芸能ならいざ知らず、分かる人に分かればいいんですとなったら既に終わっているような気がする。

役者たちは妙に皆古典的演劇作法と技術を身につけていて、セリフも聞き取りやすく動きも秀逸なのだが、それがエンターテインメントにも表現にも繋がっていないように思えた。なんだか、利賀にこもって情報遮断生活しているうちに一種のオウム化が進行しているのではあるまいな、そんな不安を覚えた程である。

2013年12月17日火曜日

ある街角クリスマス・イルミネーションの興亡

私は毎日の通勤の行き帰りに、あるミニ開発の住宅地内を通ることにしている。少し近道になるのと、渋滞を避ける目的からである。狭い生活道路に入ってこられる側はいい迷惑であろうが、そこは充分な低速順守で安全運転を心がけているつもりである。

その街角では、今まで暮れの季節になると家々が競ってクリスマス・イルミネーションを並べ立てるのが習わしだった。少なくともそこの町内道路を通勤路に利用し始めた5年前から、それは既に始まっていたが、私が気づいた当初は素朴というか、生け垣の一部をクリスマスツリーに見立てたような小規模なものだった。

ところが年とともに電飾は手が込んだものとなり、特にその街角の入り口に当たる1軒の家などは、点滅を多用した動きのあるものを飾るようになっていった。昨年の飾りなどまるで仕掛け花火のナイアガラの滝のような一面の光の流れの中を、サンタクロースのソリが屋根まで上り詰めていくという、ド派手なものであった。

いくら夕方から数時間とはいえ、あれだけチカチカさせるためには結構な電気代がかかるのではないか、何より近所の家から苦情は来ないのだろうかと、人事ながら心配したものである。電飾のそうした進化というか変遷は、美術史における素朴写実からルネサンスを経て、マニエリズム、バロックへという変化を思い起こさせたものだった。

今年は一体どんなイルミネーションが飾られるのだろうか、新古典主義か、ロマン主義かなどと多少期待していたのだが、なんと今年は件の家には何の電飾もなく、二〜三軒ほどの家が控えめなイルミネーションを飾っているばかりなのである。人々は軍拡にも似たイルミネーション拡大競争に疲れ、身の丈の電飾に満足しているかのようであった。

それにしても、トップを切って派手派手イルミネーションを展開していたあの家には何があったのだろう。対外的軍事誇示方針に異を唱える勢力によるクーデターか、それ以前の経済破綻か。まさかクリスマス当日を狙って、一家玉砕も辞さぬ新型電飾兵器を開陳するのではあるまいな。そんな想像に浸ってしまい、思わず安全運転も疎かになる師走の夕暮れの街角なのだった。

2013年12月13日金曜日

13日の金曜日

今日は今年二度目にして最後の13日の金曜日である。今日を逃すと来年の6月まで13日の金曜日は来ないので、乏しいネタの一つではあるのだが、あえて話題としたい。と言って、13日の金曜日を不吉な日とするのは英語圏とドイツ・フランスぐらいで、我が国では単なる他国の迷信として知られるぐらいであろう。

それでも他国とはいえ、この手の俗信が妙に根を張っているのは興味を引かれるもので、まして医学領域で真面目に取り上げて考察している論文まであるのは更に興味深い。ここではそうした医学論文の幾つかを紹介したい。

一番有名で、あちこちで引用されるのが、1993年、英国医学雑誌12月号に掲載された「13日の金曜日はあなたの健康を害するか?」というものである。この論文ではテームズ川と交差する高速道路の通過自動車数、スーパーマーケットの来客者数、交通事故による新規入院者数を同年の13日の金曜日と6日の金曜日(当然両者の年内頻度は同じ)で比較したものである。

結論として、13日の金曜日の通過自動車数は6日より優位に少なく、マーケット来客数には変化がないが、交通事故による新規入院者数は65対45という差で増加していた。著者たちは13日の金曜日がアンラッキーな日であるのは明らかとして、その日は自宅に留まるように勧めている。

この論文は明らかにジョークで、まずたった1日の「統計」ですべてを説明しているのが妙。そもそも英国医学雑誌は年末に必ず冗談論文特集を載せるので有名なのである。それでも、今もこの論文は結構引用され(ほとんどがジョークネタとしてではあるが)続けているのである。

医学論文検索サイトPubmedで調べた限りでは、その後13日の金曜日に関して正式な医学雑誌に採用された論文は獣医師によるものを入れて10を数え、無料で読める抜粋が添えられているのはそのうち7つである。

その中でわずかながらでも13日の金曜日に不吉な悲劇が伴うとしているのは2002年、米国精神医学雑誌に掲載されたフィンランドの研究者によるもので、1971年から97年の間の交通事故死統計から、13日の金曜日には女性だけに38%の事故死増加が見られるとしている。

しかし2004年、同じくフィンランドの別の研究者は、1989年から2002年の統計を使って、女性であれ男性であれ、13日の金曜日に交通事故死が増えている事実はなかったという反論を発表している。統計の母集団が違うのだから、これは水掛け論ですがね。

それ以外の6つの論文も、すべて13日の金曜日の影響を否定するものばかりである。一番最近では2012年7月の米国救急医学雑誌に掲載された論文がある。米国バージニア州の6っの病院の救急施設利用者数を2002年から2009年まで7年間追跡し、13日の金曜日に特別な利用者数増加などは見られなかったとする。

ただ、あまりに不吉なことが重なったため、その日には救急施設を利用するまでもなく息絶えた人々が多数いたのかどうかまでは考察していないのが少々難点。

2013年12月11日水曜日

もうすぐ冬至

ふと気がつけば10日以上更新をサボっている。そうしたからと言って別に何の問題もないのだが、ブログと言うものは言うならば自分自身の決意性を確認する行為でもあるわけで、ズルズルと何も書かないままに放っておくと、自己評価が下がっていくばかりなのである、

と言って大したネタもないので、最近気がついたことでも書いてみる。私は仕事が全く好きではないが、仕事に追われるのはもっと嫌いなので、とにかく定時に帰ることだけは必ず守るようにしてきた。そのために一番有効なのはとにかく早朝出勤することである。

人より二時間早く出勤し、書類仕事を済ませ、その日のデューティをイメージトレーニングというか、一旦脳内で済ませておくわけである。既に一度イメージ上でこなした問題は本番でも案外うまく行くもので、このやり方はこの40年来自分のスタイルにしてきたつもりである。

ところが精神科単科病院というのは朝が遅く、勿論、病棟の中ではそれなりの業務が進んではいるのだが、外から人を受け入れるのは午前8時以降になるところがほとんどである。朝早く出勤したのに鍵がかかっていて院内に入れず、無意味に車の中で待っていたなんてこともよくあった。

その点、総合病院だとそれより2時間は早いというか、そもそも24時間それなりに動いているので自分のペースが作りやすい。私がもっぱら総合病院で働くのを好んだのはそういうところが理由なのかもしれない。

そんなわけで、朝の6時過ぎには仕事場に着いて自分のとろいペースで1日を始めるようにしているわけだが、それで意識せざるを得ないのが日の出、日の入り時間である、朝出勤するときや帰宅する時、真っ暗なのか明るいのかというのはかなり士気に関わる事項なのだ。

体感的には先週あたりが最も日の入りが早く、日の出は遅くなるばかりという印象。冬至はまだ先なのに、日の入りが遅くなるということがあるんだろうかと調べたところ、まさしく私の実感通りなのだ。

冬至を前にして日の入りはだんだん遅くなり、一方で日の出は1月初めまでは遅くなり続けるのである。冬至に日の出が最も遅く、日の入りは最も早くなるのかと思っていたが、違うらしい。いずれにせよ、ひと月もしないうちにまた太陽優位の季節に切り替わっていくのだ。私としてはこのまま今ぐらいの薄暗い日々が続いて欲しい気分。

全然関係ないが、春分の日や秋分の日は休日なのに、なんで冬至や夏至は休みにならないのだろう。冬至が休日になれば天皇誕生日と絡んで正月前のプチホワイトウィークとして消費増大の助けになると思いますがなぁ。夏至も6月唯一の休日になって、好感度は高いと思うんだが。

2013年11月30日土曜日

「グッドバイ」観劇

世田谷シアタートラムにて「グッドバイ」を観劇。言わずと知れた太宰治の絶筆をモチーフにしたものである。戯曲を書いた北村想は70年代の小劇場というか、アングラ芝居に出自がある人なんだけれど、どちらかと言うといわゆる新劇への親和度が高い人でもある、と私は理解していた。と言いつつ、そういう思い込みのせいもあって今まで全く観たことはない。

今回観ることになったのは、太宰治をとりあげたからに他ならない。太宰なんかに没頭するのは中学生から高校生のブンガク愛好家であろうが、私はせいぜい「人間失格」当たりを読んで、こんなに自分をネガティブに見るのはいかがなものかと感じた程度であった。

よく高校現代国語の設問に使われた、変に浮ついた自己教育肯定の文書、カルチベートがどうしたといった文を読むと今度はやたらに違和感を感じたものだった。長じて精神科医という因業な稼業をすることになり、彼が双極性感情障害と診断されていることを知ることとなったが、今もそれには完全に納得しているわけではない。単に自分が主役でないと許せない未熟性を克服出来なかった人なのではないですかなぁ。

そんな私でも彼の絶筆といわれるグッドバイは読んでいる。確か陰で闇屋もやっている編集者が、10人の愛人と別れるために、声は悪くて妙に力持ちながら絶世の美女であるキヌ子という担ぎ屋の女を妻だと偽って愛人たちを挨拶回りするような話だった。一人目の女性と別れたところで太宰は心中死してしまい、話は未完のままになるのだ。太宰にしてみれば、この未完の小説は世間という性悪女への愛想尽かしだったのかもしれない。

肝心の芝居の方であるが、さすがに「モチーフにした」と言うだけあって小説との一致点は美女を婚約者だと紹介する作戦で、愛人との縁切り行脚をすると言う点だけ。主人公は初老の大学教授になっており、この人が愛妻の死後、8人の愛人を作ったものの、自分の大学理事長である女性と再婚したため、他の女性と別れる約束をさせられてしまったと言う設定。

連れて歩く女性を募集したところ、ほとんどブスばかりで使い物にならない。一人だけお気に入りの女性がいたものの、それがひどい河内弁しか喋れないという設定は小説からの翻案。もっとも、その女性が応募してきたのには実はウラがあって…、という別れの行脚の謎解き話としてストーリーは進行する。少々納得出来ない点もありつつ、最後はえらく純情話に収束する雰囲気を示して大団円。原作の胡散臭さが全く受け継がれていないのが少々残念。最もその部分は原作にはない高橋克実が演じた詩人崩れの造形に集約されているのかもしれないが。

女性を演じた蒼井優という人は童顔過ぎて、いわゆる「美女」とは言いがたい。主人公の教授役の段田安則はやはり上手な新劇俳優である。彼の助手役だった柄本祐はあの柄本明の息子らしい。あまりにいい男なので少々驚愕。遺伝法則はどうなっておるんだ。柄本明にはもう一人息子がいてその人も俳優らしい。今度二人でベケットの「ゴドーを待ちながら」をやるらしい。観に行こうかな。


2013年11月28日木曜日

クロネコからのプレゼント2

以前にも書いたことがあるクロネコヤマトからのプレゼント、第二弾が送られてくる。

ヤマト便のメンバー登録をしておくと、利用するたびにポイントがたまり、プレゼントと交換してもらえるのである。それも、こちらから送る場合だけでなく、送られてきた品物を受け取るだけでもポイントが付くのである。

私は日用品の調達の90%以上をアマゾンに依拠しているので、週に3回はクロネコ便が届く。一人暮らしだと、配達時刻の指定が細かく出来るクロネコ便が一番便利なのだ。おまけにアマゾンは少し前からほとんどの配達がクロネコ便になり、ポイントはたまるばかりである。

今回のプレゼントはクール便のトラックのミニチュア。ちゃんとサイドドアはスライドし、後ろのドアも開く。それがどうしたと言われたら返す言葉もないが。今の調子でポイントがたまっていけば、今年度中にはクロネコ全車両が揃いそうである。それにしても、この小さなミニチュアを、なんでこんなに大きな段ボール箱で運んでくるのだろう。

2013年11月24日日曜日

戦争する脳

せっかくの連休なので、たまには活字でも読もうと、ずっと横積みにしてあった計見一雄氏の「戦争する脳」を手に取る。新書なので、ボケかけた頭でも何とか読み通せるのではという思惑である。

計見氏は私より干支一回りほど上で、大学も違えば職場も一緒になったことはないのだが、学生時代から私的な研究会で様々な教えを受けた大先輩にして大恩人である。ここ10年以上ご無沙汰しているが、時折出される著作には、この歳になっても蒙を啓かれることしきりである。

この国の精神科医としてはまれなことに精神分析の立場に立つ方で、私のような通俗精神科医とはいささか格調が違う。旧海軍軍人の父上の影響か、旧軍の良質な部分の教養と伝統を体現しておられる。我が家なんか、爺さんが輜重兵(運転手)で親父は工兵隊(線路工夫)だものね。

その計見氏がこのところ流行りの「脳」本を出したのかと思ったが、中身はそのようなものではなかった。精神分析学者らしく、否認機制の解説に始まり、イラク戦争が長期化した理由を、戦争主導者たちに働いた否認機制から説明する試みがなされている。脳の機能についての解説はほとんど付け足しだけ。ただ脳機能の成り立ちからして「好悪や愛憎抜きの純粋な合理的判断は、脳には出来ない」と前半3分の1当たりで結論されてはいる。

それ以降は脳機能の話は出てこず、氏の戦史薀蓄やライフワークである精神科救急と戦陣精神医学の話が続く。この辺は私も昔調べた事があるが、計見氏の概説のほうがはるかに詳しい。米軍の精神科救急ユニットは朝鮮戦争の頃確立したと私は理解していたんだが、実際は湾岸戦争まで満足に機能していなかったんですな。我が国の職場の精神衛生活動がたいして機能しないのも当然かも。

精神科医の立場で読めば示唆に富む内容なのだが、一般的な「脳本」を期待するといささか裏切られるかも知れない。しかし戦争と精神医学という意外な組み合わせと、けっこうな関連性の存在を知ることは損にはならないと思える。

2013年11月23日土曜日

猪瀬都知事への提言

報道によれば、猪瀬都知事は昨年の立候補直前に徳州会理事長である徳田虎雄氏と面会し立候補挨拶をした上で、5000万円の資金提供を受けたということである。

最も「徳洲会関係者」の言うことと知事側の言うことは微妙に食い違っていて、猪瀬氏側から一億円の資金提供を要求されたと徳洲会側はいい、猪瀬氏側は挨拶に行っただけだが、資金提供を申し出られ、断るのも何だと思って一応借入金扱いにしていたとのこと。

猪瀬氏がなんで立候補前に徳田氏に挨拶に行かねばならんのかがまず判らず、徳洲会が猪瀬氏に資金提供する理由はそれ以上に判らない。当選は間違いないから、ここで紐付きにしておくと後々有利と思ったんですかねぇ。猪瀬氏もそれを期待していたんだろうか。

猪瀬氏と知り合ったのはもう40年以上前、田舎の大学ながら紛争まっただ中の頃である。私は新入生、彼は学部は違うものの学内闘争組織の委員長だった。彼の凛としたアジテーションはアホな若造の魂を揺さぶるもので、世界をこの人なら変えてくれると思えたほどであった。

当時の主張とはかなり変わるものではあれ、猪瀬氏の活躍はその後も続いた。作家として、政府の諮問機関の一員として、与党にも野党にもない新鮮な発想を政治の世界に吹き込んでくれたと思う。

私は政治家というものは、絶対的クリーンでなければならないとは思わない。「一着しかない人民服をきて1日2合の麦だけを食べる清貧の指導者」なんぞクソ食らえである。今回の問題にしても大した金額でもなし、徳洲会の八つ当たり要素が強いと思われるのだが、選挙前のヤバい時期に資金無心にノコノコ行ってしまったイメージのダメージは大きい。

ここは潔く辞任されるのが一番吉と思える。オリンピック招致の実績だけで充分な実績ではないか。そうしてSP抜きで昔話に花咲せて大酒一緒に飲みましょう。勿論、直後の再出馬もありですけど。


2013年11月14日木曜日

KAAT×唐ゼミ☆合同公演『唐版 滝の白糸』

平日休みの夕べ、明日は朝早くから仕事だというのに、KAAT×唐ゼミ☆合同公演『唐版 滝の白糸』観劇のため横浜まで出かける。KAATと言うのは神奈川芸術劇場のことで、中華街のそばにいつの間にか、立派な劇場が出来ているのである。Kanagawa Arts Theatreの頭文字にしてはAが一つ多いような気がするが、KATでは様にならんとか、なんかの事情なんだろう。

先月の10日に蜷川幸男演出の「唐版 滝の白糸」を見たばかりなのだが、あのよくわからなかった芝居が別の演出ならどうなるのか、というのに興味があった。横浜なので近いし、何より演じるのが「唐ゼミ」というマイナー劇団なのでチケットが安いというのも魅力。

唐十郎は数年前まで横浜国大の教授をしていたんだそうで、彼のゼミを母体として横浜を中心に活動しているのが劇団唐ゼミというわけ。マイナーながら、唐直系の由緒ある劇団といえる。今までの公演では唐十郎の戯曲だけを演じているようだ。まあ、当たり前か。

さて芝居そのものだが、ごく簡単に言うと「蜷川演出よりはよっぽど判りやすい」ということに尽きる。愚直に唐のセリフ回しを追い、唐の世界観を再現することに徹している。状況劇場時代の唐の盟友、大久保鷹が銀メガネを演じており、そもそも唐自身が大久保鷹をモデルにして銀メガネを造形したそうで、なるほど、この胡散臭さが狙いだったんだなと納得させられる。蜷川劇での同役、平幹二朗は名優だとは思うが、やはり胡散臭さに欠けるのである。

蜷川演出にはたっぷり用意されていた外連味に富む劇的スペクタクルは小ぶりであったが、怪しげな貧乏人同士の金をめぐるやりとりに発して、小人のプロレスに象徴される「異形の無秩序」対「秩序=体制」という対立を、血の水芸による戦いで突き崩すという唐の布置構造がそのまま素直に伝わってくる芝居であった。何故今これを演じるのか、という意図は正直言って分からない。唐十郎というある種の天才の、動態保存記念館を作る衝動みたいなものであろうか。

2013年11月10日日曜日

野田地図「MIWA」観劇


昨夕は東京芸術劇場まで出かけて野田秀樹の「MIWA」を友人達と観劇。首都東京とはいえ、池袋までくると私のような田舎モンでも、そうアウェイ感にはとらわれない気楽さがある。それでも劇場前の広場では何やらわからんイベントがいくつか繰り広げられており、アートの雰囲気は満々である。

肝心のMIWAであるがこれは美輪明宏のことで、基本的には彼(彼女?)の半生記が芝居の骨格となっている。野田の芝居は唐十郎などと比べると、より言語の意味にこだわる部分が強く、重層的な構造がこれでもかこれでもかと繰り返される作りになっていて、それを見事な構成と感じるか、ウザいと感じるかは多少微妙なところがある。

少なくとも昨夜のMIWAに関してはかなりの出来と思われた。天国で自分の性を選んで生まれ落ちようとする時、神に逆らったアンドロギュノスと一緒に地上におりてしまい、ひとつの身体を分け合うことになった、というのが発端部分。主人公のMIWAは宮沢りえと中村有志が扮したネガティヴオーラ夫人みたいな衣装の古田新太が二人で演じるという作り。他にも劇そのものが劇中劇になっているとか、凝った意匠には事欠かない。

一番関心したのは宮沢りえの存在感で、ほぼ2時間以上出ずっぱり、かつ長セリフの連続を難なくこなし、あちらこちらへと転導されるイメージを取りまとめる役割をきっちりと引き受けている。今までみた彼女の出演作の中では出色の出来と思えた。単に可愛いだけの役者では無さそうである。今までちょっと過小評価していたなと少し反省。

そんなわけで、なかなかの満足を覚えて湘南新宿ラインにて帰宅。今月はあと二つ観劇計画があるんだが、それも当たりであって欲しいなと念じつつ就寝する。

2013年11月8日金曜日

ハエはどうやって天井にとまるのか

またもThe straight Dopeネタ。

飛んでいるハエが天井にとまる時、どのように上下を入れ替えているのかという質問。

確かに謎である。普通に天井近くまで飛び、そこでブルーインパルス風に横向き半回転するのか、もっと別の方法をとるのか。

勿論セシルアダムズはこの疑問に簡潔に答えているのだが、自分でも根拠になる映像か画像を見つけようとしばらくネットを散策。

YouTubeに"How is a fly landing on the ceiling?"という映像がアップされているが、どこが天井なのかさっぱりわからず、止まっているのかどうかも定かで無く、全く参考にならない。

結局上の画像を発見。天井近くまで飛んだハエは前足を振り上げて天井につかまって懸垂状態になり、それから身体を振り上げて天井に止まるのであった。天井に止まれるのは足についている粘液成分のおかげ。

日本の質問サイトではハエが天井に止まれる理由を聞くものばかりなのに、英語圏ではどのように逆ひねり着地をするのか、という動作を問うものがメインだったのがちょっと面白い。

2013年10月31日木曜日

Quizás, quizás, quizás


散髪屋に行って店内に流れるラジオ放送を聞いていたら、ラテンのスタンダード、キサス・キサス・キサスがかかっていた。

驚いたことに、今日はなんとスペイン語の歌詞の意味が大体分かるのである。不実な恋人に何をたずねても、いい加減に多分ね、としか答えてくれないもどかしさを歌っているということが、日本語に逐語訳するのではなく、スペイン語そのものの意味として受け取れた。

日本人なら誰でも「明日食わんぞ」と聞いてしまう有名なくだりも、普通に¿Hasta cuándo?と聞ける。何時になったら(貴女の本当の気持ちを明かしてくれるのか)ということだろう。YouTubeにナット・キング・コールのキサス・キサス・キサスがあったので拝借。字幕は残念ながら出ない。

実は半年前からロゼッタストーンという語学学習PCソフトで、中国語とスペイン語を練習している。そう意味はないのだが、ボケ防止になるかなと思ったのが主な理由。ロゼッタストーンの学習法はとにかく状況を示す写真を見ながら短文を読んで発音する、もしくは、ネイティブの発音を聞いて正しい文例を選択することを繰り返す。時々書き取りの問題も出る。辞書は引かず、文法解説もない。

スペイン語の場合なんか、動詞変化を体系的に覚えることもないが、何度か読み取り、聞き取りを繰り返しているうちにpensandoとかcontestandoみたいにandoがついてる奴は進行形らしいというようなことがだんだん判ってくる仕組み。それでもseとかの再帰代名詞っぽいのがどんな場合につくのか、なんてことは皆目わからない。ただ用例を重ねるしかない。ソフトだけでは語彙が足らないのも致し方ない。

それでも、今まで不分明な音声の塊として聞いていた歌詞が、ちゃんとした言語として聞き取れる体験をもたらしてくれたわけで、そこそこの効果はあったことになる。意味が発見できるというのは、どんなことであれ、なかなかの喜びが得られることだと再認識した。実用的レベルに達するかどうかはそれこそQuizás, quizás, quizás。

2013年10月27日日曜日

OSアップデート悲喜こもごも

職場に持ち込んで使っているウインドウズマシンをWin8.1にアップデートしたのが、10日ほど前。スタートボタンが加わった事以外、どこが違うのかよくわからなかったが、なんとなく使いやすくなったような気がしていた。

そうしたら昨日になって、「ウィンドウズを自己修復出来なかったので、起動しないよ」と言うようなメッセージが出て固まっているのを発見。何度も再起動してみるが途中で動かなくなってしまう。XPマシンに7をつぎあてし、後はダウンロードした格安8でアップデートし、さらに無料ダウンロードで8.1にしたので、DVDで起動させて修復というのも無理。

えーい、これ以上金を掛けるのも業腹だ、Ubuntuにしてしまえと持っていたISOイメージDVDから起動させようとするとそれも出来ない。どうもハードレベルでイカれてしまっているようだ。マシン自体は数年前の自家製で、CPUはペンチアム4と言うシロモノだからなぁ。多分、win8.1をぶん回すのに負担がかかりすぎ、どこかが動作不良になったのだろう。

諦めてCPUとマザーボードを買い換え、おとなしくUbuntuでも使っていようかと考えている。最近老眼が進んだので、PC組み立てみたいな細かな作業はきついんだよね。日曜日にわざわざ職場に出かけて修理作業を試みた結果がこれだったので、いささか意気消沈。

自宅に帰ってからはMacをLionからMavericksにアップデート。8.1も無料、こちらも無料なので、ちょっと不安があったがタダの魅力には勝てない。しかし不安は的中。再起動したら今度はローマ字が滅茶苦茶になって文章が打てない。なんだかわからずあれこれ試行錯誤の結果、キーボード配列がフランス語に固定されているのが判明。フランス語配列を削除しようとしても何故か出来ない。

仕方なく忸怩たる思いでサポートセンターに電話。「別のユーザーを作ってそこで同じ現象が起こるかお試しになられては」と言う提案。testユーザーで確かめるとちゃんと普通の配列になっている。しかも、自分のユーザーアカウントに戻ると、そこももとに戻っている。訳がわからないが、Macにはこの程度の謎はつきものなので、治ればよしとしておくしかない。

そんなわけでWindowsとOSX、二つのOSアップデートに振り回された週末だった。しかも片一方はまだ解決していない。悲喜こもごもと書いたけれど、喜はどこにもなかったなと今気づいたところ。

2013年10月22日火曜日

Famous Lookalike

 オスカー・ワイルドとヒュー・グラント、ショーペンハウエルとジョニー・デップは確かに似ているという新たな知見をもたらしてくれたブログを発見。

73組のそっくりさんが対になっているのだが、残念なことに大半は「二人とも知らない」。

チャールズ・ラムとマイケル・フェルプス
なんて確かにそっくりなんだが誰なんだそれ、という感じ。

少なくとも片一方は知っているというのも多いので、秋の夜長、検索サイト相手に時間つぶしするのには最適のサイトかもしれない。

そっくりさんというより、たまたま同じような表情を作った瞬間を捉えて並べたというのも多そう。例:ヘンリー・フォードとスティーブ・マーチン。

パットン将軍とドナルド・トランプというのがあったが、頂上を極めるとみんな同じような顔になるんですなぁ。個人的にはパットン将軍のかぶっている将軍用ヘルメットがかなり気に入った。

スチーブ・ブシェミと草野大吾が入っていなかったので、評価は一寸減点。

2013年10月18日金曜日

五木寛之の講演会

神奈川県はソフトとハード、二重の精神科救急網を完備していると自称している。実際、そこそこ機能しているので、自称などという言い方は失礼なのは判るのだが、どことなくぎこちないのは事実である。

ソフトというのは、急な病状悪化が見られる患者さんが受診したが、ベッドの空きがないというような場合。県精神科救急受付というところに電話すればいいことになっているが、これは夜間だけ機能することになっている。日中なら不安定な患者さんを抱えた医療機関が自力で受け入れ先を探すことになる。

ハードというのは病状悪化のため何らかの事件を起こしてしまい、警察に保護されているというような場合。いわゆる措置入院申請が警察官、検察官から出されている場合で、神奈川ではこれを精神病院協会加盟の病院が輪番で受け入れる体制を作った。県がいくばくかの補助金を出し、輪番病院に人を確保してベッドを開けておくためのお金を配分するわけである。

この制度は案外うまく機能しており、まず金の流れを先に考えたことの利点に感心させられる。今は他の都府県でも同じなのかもしれないが、少なくとも今まで私が在籍したあちこちの病院所在地では、あまりスマートではない受け入れ交渉をしていたものだった。

精神病院協会を基本組織としたのも秀逸である。40年ぐらい前、かの武見太郎元医師会会長をして「牧畜業者」と揶揄させた私立精神科単科病院の既得権防衛組織だった団体である。様々な自己改革もあり当時とはぜんぜん違うのだが、やはりそこは自らの存続を第一に考えるしかないのは致し方無い。一定の金銭的メリットを与えつつ、社会的セルフエスティームも付与する制度を考えた人は本当に偉い。

問題は、そのハード救急システムに関与しようとすると、その精神科病院協会に加盟しないといけないことで、私の職場のように総合病院の中に付録のように付いている精神科治療ユニットの場合、結局私が代表としてそこの活動に関与しないといけなくなってしまう。出来れば何もしないで給料泥棒に徹したい私としては実にまずい展開である。

今日はその県精神病院協会の50周年記念式典とのこと。致し方なく慣れないスーツ姿で会場に赴く。式典の後は記念講演があり、それが何故か作家の五木寛之氏によるものであった。五木氏には「凍河」という神奈川県の精神病院を舞台にした小説があり、映画やTVドラマにもなっているので、その辺の関連なのかなと思っていたが、それは全く紹介でも触れられず、本人も語らなかった。小説のモデル病院の故院長、昔は懇意にしていたので後で偉そうに吹聴できるかと思ってたのに。

五木氏は「悲しみの効用」と題して、抑うつが日本社会の基本的問題のように議論され、また実際それをいかにして排除するのかという問題提起ばかりが優先しているが、悲しみや憂いを人の基本的あり方とする文化を自分たちが持っていたことを忘れないようにしないといけない、というような内容の講演をされたように思う。

ポルトガルのファドとか、アメリカのブルースなんかをその議論の傍証にするのはさすがに五木氏ならでは。日本では大正中期ごろまで、「暗愁」という言葉が生きていたんだそうで、ポジティヴな思考の背景に、このような一種のネガティヴ感情が縁取られているからこそ、我々の生がより豊かになりうるという発想をするべきではないかという提起は、実に示唆に富むものだと思えた。

まあ私なんか、どうせ20年もしないうちに死ぬんだし、自分が手に入れて満足だと思っているものもそのうち無くなる運命なんだから、今やれることをやるしかないと、いつも念じながら生きておりますが。それにしても、職場で「五木ひろしの公演を観に早引けした」と言われてないか、それが一番心配。

2013年10月11日金曜日

野球クイズ

アメリカのいくつかの新聞に配信されている有名雑学なんでも質問コラム"The Straight Dope"(これはセシル・アダムズという物知りおじさんが読者の難問に応えると言う形式を取っている)の過去記事に載っていた野球ルールクイズ。

「あるチームが1イニングに7人のバッターを打席に送ったが、結局1点も取れなかった。これはどんな場合に起こるのだろうか。私はノーアウト満塁、2人続けてポップフライ、次の打者がホームラン、そして次の打者がアウトになった時、ホームラン打者が1塁ベースを踏んでいなかったという相手チームのアピールでホームラン無効、無得点というのを考えたのだが違うのだろうか。セシルおじさん、教えて!」

それに対するセシル・アダムズの答え。

まず第一に、代打のことは考えないと言う前提が必要。1イニング中、代打はベンチ登録されている範囲で何人でも出すことが出来る。ホームランの場合だけを考えているのは偉いが、一寸考えが足らない。野球規則には、ホームランの無効アピールは、次の打者が打席に立ち、ピッチャーがそれに対峙した時のみ可能と書かれている。

だから正しい答えは、2アウト満塁(ここまでに打者は5人)、次の打者がホームランを打つものの一塁ベースを踏み忘れてダイアモンドを一周する。そしてその次の打者が打席に入った時、ピッチャーがアンパイアにボールを要求して一塁に送球し、その段階で前打者はアウト、無得点でチェンジ。そして打者7人で無得点という記録が達成されるということになる。お判りか?(以下、彼の得意のトリビアが開陳される)

昔、長嶋選手がベース踏み忘れてホームランでアウトになっていたが、こんな手続きだったんだろうか。あまりに昔のことで忘れてしまった。今は野球なんか見なくなってしまったが、こういうクイズなら今でも面白い。

2013年10月10日木曜日

唐版「滝の白糸」観劇

昨夜は渋谷シアターコクーンに唐版「滝の白糸」を観に友人達とお出かけ。都心に出かけるだけで疲れてしまい、観劇の後の感想会の飲み過ぎもあったのか、今日は1日臥せっておりました。

滝の白糸は1975年に書かれたもので、一応唐十郎の初期傑作のひとつと言われている。簡単にあらすじを、と思ったのだがそういう風にまとめるには少々困難な作品である。要はなんだかわからないわけ。

舞台の上にはほとんど崩れかかった無人の路地奥の街角が結構リアルに再現されており、すべての話はこの場で進行する。一人の青年が現れ、彼の後をつけていく怪しげなオッサンとのやりとりで芝居は始まる。

10年前、子供だった青年アリダはつけてきた男、銀メガネに誘拐されかけた過去があるらしい。銀メガネは捕まり、つい最近刑務所から出てきたばかり。一方のアリダはこの街角に住んでいて一年前に自殺した兄の同棲相手から、貸していた金を返すようにと呼び出されていた。

こういう設定から始まるストーリーがあることはあるのだが、実際の劇中のセリフはとりとめなくあちらこちらに散らばり、隠喩と換喩のオンパレードが続く。一体この話をどう収拾させるのかと心配してしまう程。結局、兄の同棲相手のお甲が、水芸芸人の白糸太夫でもあるという強引な力技設定で、最後は吹き出す血の水芸となってフィナーレ。

筋書きが進行するのが目的ではなく、その場面場面で劇的スペクタクルが展開されていけばいいというのが唐の、そして今回の演出者、蜷川幸雄の考えなのだろう。お甲の元宝塚女優とアリダの役者が、舞台俳優としては今ひとつという限界を抱えながらも、作家と演出家の狙いはある程度成功しているように私には思えた。

しかしながら、最後の場面で何故か「ワルキューレの騎行」が効果音楽として使われており、その断片の音楽に芝居全体が完全に負けている。唐十郎と蜷川幸雄が束になっても、ワーグナーのイメージ喚起力にはかなわないらしいと、一寸寂しくなって劇場を後にしたのだった。

2013年10月3日木曜日

Starman

この楽曲は1970年代初頭、デビッド・ボウイのアルバム「ジギー・スターダスト」に収録されている「スターマン」を、当時のゴスペル・ソウルグループ、"Milky Edwards & The Chamberlings"がカバーした稀少品としてYouTubeにアップされているモノ。

他にも二曲、同じボウイのアルバムの曲が昨年の二月にアップされている。いわゆるモータウン風の黒っぽい雰囲気に編曲されていて、ボウイの話題作カバーだとは気が付かないほどの見事な作りである。

デビッド・ボウイにもソウル・ミュージックにも興味が無い人なら(実は私もそうなのだが)、はぁそうですかで終わる話だが、一番の問題は"Milky Edwards & The Chamberlings"と言うグループが存在したことはないということなのである。

YouTubeには一寸古ぼけた紙ジャケットが写っているが、こちらのサイトの考察によれば、このデザインからして、ダイアナ・ロス&シュープリームスのレフレクションのパクリで、しかも題字はフォトショップ加工されている可能性が高いらしい。

ボーカルの声質がモータウン系と言うよりはトム・ジョーンズみたいだが、曲の作りはとても素人には無理と思えるもので、なんでここまで手のかかるイタズラをするのか、ちょっとその意を図り難い。これを作った人のサイトと思えるものもあるのだが、曲の作りとは裏腹にテキトーなもので、ますます疑問は深まるばかりなのである。

2013年9月25日水曜日

水のトラブル対応します

一年ちょっと前頃から、水のトラブル即解決、を謳った宣伝マグネットカードがやたらに郵便受けに放り込まれるようになった。

TVで元体操選手のCMを見たのはかなり前の事だったから、こういうフランチャイズ水道工事ネットは以前から存在していたのだろう。

TVで流すより、直接目につく宣伝媒体+販促物のほうが効果的ということで、このマグネットカードが選ばれたのだと思われる。各社横並びでそれに習ったのは、結構なアイデアであった証拠なのかもしれない。

実際、ビラならそのままゴミ箱行きだが、マグネットなら捨てるのも何、と言う気分になり、冷蔵庫あたりに貼り付けることになる。もしかしたら私がしみったれだからそうしているので、他の人は即捨てているのかもしれないが。

そんなわけで、うちの冷蔵庫の扉には何社もの水のトラブル救援隊の宣伝マグネットが目白押しである。今のところ、お世話になるような事態に陥っていないので、せっかくの案内も利用したことがないのが残念。

これだけ目にしているのに、「水もれ・つまり」の順に書いてあると、いつも「水もれまつり」と読んでしまうのが不思議である。そこら中から吹き出す水の中で、マグネットのキャラクターたちが揃って楽しく踊る祝祭的情景を想像するのは私だけなんだろうか。

2013年9月22日日曜日

宮ノ下富士屋ホテル

娘たちと毎年恒例のクラシックホテル鯨飲馬食大会開催のため、箱根宮ノ下富士屋ホテルに出かける。

理由は亡妻の命日を家族で過ごそうと言うことなのだが、最近では単なる慣習に陥りつつある。大体、命日はまだちょっと先だし。

今回はかなり見栄をはって、花御殿のスイートを予約した。猫を放っておけないので一泊しか出来ないが。

たとえスイートに泊まっても行動様式は毎年同じで、到着するなり近くのコンビニでおつまみ、缶ビール、ウコンの力などを大量購入し、ディナーも待てず飲み始める。いい加減出来上がったところでディナー。

ここのメインレストランでは、30年前ぐらい前の結婚式ではよくこんなのが出たなぁと言う感じのフランス料理を供してくれる。もう一寸大胆な料理を出してくれたらと思わないでもないが、家族全員シャンパンとワインの方がメインの関心なので、これで充分。ホテルレーベルのジュブレイシャンベルタンとても美味しゅうございました。

食べ終わるとバーに繰り出し、その後は部屋で乾き物をかじりながら、コンビニで買った酒の残りを飲みほしつつ、滅多に集まれない家族の時を過ごしたのだった。チェックアウトの支払いの際、亡妻への哀悼の意にきわめて近似した感情が湧いてきたのもこれまた恒例。

2013年9月18日水曜日

ビッグ・リボウスキー

コーエン兄弟作の続き。「ファーゴ」の二年後、1998年の作品である。

ポーランド系なのか、リボウスキーという妙な名前の持ち主が主人公。彼は60年代の反戦運動活動家崩れで、今はマリファナとボーリングに明け暮れるプー太郎。

ある夜、強面の借金取り二人組に自宅に押し入られ、手ひどい暴行を受けるが、理由は彼の妻が多額の借金を作って返さないということだと言われる。ん? 俺独身なんだけど。

同じ名前の富豪と間違えられたらしく、ボーリング仲間はその富豪から幾らかのお詫び金をせしめるようにと焚きつける。当然相手にもされないが、後になってその富豪から、「妻が誘拐されたので100万ドルの身代金の受け渡し役をやってくれ」という依頼が来る。

多分富豪の若い妻が起こした偽装誘拐だろうと、小遣い稼ぎのつもりでそれに乗る主人公。ところがボーリング仲間が金を犯人から横取りしようと強引に同行してきた挙句、犯人との接触をぶち壊しにしてしまう。

まあおよそ、無能な主人公達のやることなす事、全てが事態を悪くするばかり。それでも次第に真相が明らかになってくるのだが、それは無能なのは主人公たちだけではないということ。

「ファーゴ」でも偽装誘拐事件が扱われていて、無能な犯人たちの行き当たりばったりが悲劇を拡大し続けるというものだったが、こちらの映画も無能と無能がぶつかり合って物語が紡がれていくというもの。しょせん人間がやることはこんなもの、だから面白いんですよね、というメッセージが伝わってくる。

「ファーゴ」にあった陰惨さもなく、誠に楽しめる一遍だった(スティーブ・ブシェミは今回も損な役回りだったが)。CDケースには「レイモンド・チャンドラーへのオマージュ」と書いてあったが、むしろ赤塚不二夫の漫画を見ているようである。「これでいいのだ」は常にグローバル・スタンダードというのが最終的印象。

2013年9月15日日曜日

連休はビデオで

連休になり、仕事をしないでいいのは結構なことなんだが、することがないのも困る。一寸前にまとめ買いしたビデオで一日目を過ごすことにした。

1500円の廉価版で買って放り出してあったコーエン兄弟の「ファーゴ」をまず鑑賞。これは1996年に撮られたもので、主人公の妊婦の警察署長、フランシス・マクドーマンドはこの作品でオスカー主演女優賞を取っている。正直言って、なんで?と言う感じ。自然体の演技で、別に文句はないんだけど…。

金持ちの娘と結婚した無能な婿が、金に困って妻の偽装誘拐事件を思いつき、怪しい二人組を雇うのだが、この連中の無能さと残虐性は常軌を逸していて、関係ない複数の殺人事件まで引き起こしてしまう。その事件を追う妊婦の地方警察署長が大活躍と言う話。犯人達がここまでアホばかりでは、事件解決は自ずから容易なように思えますな。

ただ、犯人の残虐性の現れが実にナチュラルというか、無理がなく自然。仏に会えばこれを殺しという無門関にも通じる雰囲気。後に出る「ノー・カントリー」などの伏線になっているような気もする。コーエン兄弟はこの作品でほぼその地位を確固としたらしいが、その後「マトリックス」を作るようには見えないなあと思っていた。

考えてみればマトリックスはウォウショウスキー兄弟で、こちらはコーエン兄弟なんだよね。兄弟だけしかあってなかった。向こうは東欧系、こっちはユダヤ系だし。




ダニエル


Danielle from Anthony Cerniello on Vimeo.

毎日一コマずつ写真をとって数十年かかって作った映像と思いきや、エイジングプロセスをエミュレートして、少年が老人の風貌になっていく過程を映像化した作品。

鼻は老年になっても成長するものだと聞いたことがあるが、この映像ではそこはあまり強調されていないように見える。妙におばちゃん顔になっていくような気がするのはそのせいかな。

何であれ、驚きの映像。今日びの画像処理技術というのはこんなことが出来んですねぇ。

2013年9月11日水曜日

父親の睾丸サイズは子育てへの熱心さの指標になる

"Proceedings of the National Academy of Science"最新号に投稿された論文によると、父親の睾丸サイズと、おむつ替え、授乳、入浴などの子育て作業協力への熱心さには密接な関連があるのだそうだ。

また、f-MRIによって観察される子供の画像をみている時の脳報酬系部位の反応性にも、睾丸サイズとの関連が見られた。

関連は逆相関で、睾丸サイズが小さいほど子育てには熱心で、子供を眺めている時の報酬系部位反応が強いことが示されたと著者たちは主張する。

研究者たちは、これらの理由は不明としているが、でかい睾丸の持ち主は多くの子供を残す能力に恵まれているから、いちいち生まれた子供に細かなケアなどしないのだと、無責任な素人意見についつい至ってしまいそう。安易な生得論に拡張される危険性はあるかもしれない。アレのでかさで多産性が一義的に決まる証拠などどこにもないけれど。

なお、ビデオはこの研究とは全く無関係。Mad TVの有名なコメディスキット。
おそらくYouTubeの中では、医学系教育映像を除けば、唯一リアル睾丸が映されたものではないだろうか。少なくとも睾丸の大きさにはかなりの個人差があるということが判る。

2013年9月8日日曜日

2020東京オリンピック決定

日曜日だというのに気がかりな夢をみて変に早く目覚めてしまい、することもなくネット閲覧していたら、2020年の東京オリンピックが確定したと報じられていた。今まで読んでいた某有力新聞系報道では、東京は全く問題外というニュアンスの記事ばっかりだったので、いささかびっくりしてしまう。

たしかその系列報道では、日本のロビー活動やウェブ記事はIOC委員に評判が悪く、誰もまともに読まない。例の福島原発事故で実際は何が起こっているかを知る委員も多く、それにちゃんと向き合っていない招致活動はほとんど効果を上げていない。多額の活動費の使途自体が問題だというような話だったのだ。それが今日になって、ほとんどのマスコミ報道にならって横綱相撲の勝利みたいなことになっている。「この決定はおかしい」と書かないのが許しがたい。

外圧に弱いこの国のこと、オリンピック開催となるといい加減な原発事故対応でのごまかしも出来ないだろうし、首都圏のインフラ改良なども促進されるだろうから、何もないよりましだと私は思う。そう多いとは思えない反対派が言う、オリンピックで保守化や軍事費増強、憲法改正策動がごまかされるという主張はあまり根拠があると思えない。1940年の東京オリンピック開催がパーになった歴史を思い起こせないバカでは、さすがに国家の運営はできんだろう。

この機会に、せめて首都圏周辺のの電信柱撤去と送電線地中化だけはやってほしいなとしみじみ思う。無意味だと言っている人もいるのだが、何であれ仕事が増えればGDPと言う奴にもプラスの効果があるのではないかと素人ながら思うのだが、違うのだろうか。変なバラマキより、首都圏の都市景観が改善するだけましなような気がする。

真夏開催で高校野球とバッティングするからと、電力消費を危惧する意見もあるらしいが、世界のトップアスリートの戦いと、田舎高校生のヘタクソな玉遊びを一緒にする人の気持ちが判らん。オリンピックで増える消費分がちゃんとこなせれば、あとはカスみたいなものではないのかな。山ほど問題はあるのだろうが、猪瀬都知事に頑張ってもらいましょう。あと二期は安泰ということになるかどうかは知らないが。

大体、自分が後7年後にどうなっているのが判らんので、なんとなく全てどうでもいい意見になってしまう。


2013年9月6日金曜日

就職面接中に隕石落下

韓国LG社のチリ子会社が作ったHDTVのドッキリカメラ風CMムービーということになっている映像。

ラテンのセンスが秀逸と感じないでもないのだが、なんとなく作り物臭い。

いくらHDTVと言ったって、窓から見える風景だと疑わずに見るほどリアルなものになるとは思えないんだが。

だまされた人々のうちの一人が、やたらに本気で怒っているのもかえって演出ぽい。ここまで馬鹿馬鹿しいことに直面すれば、普通は笑っちゃうしかないのではないかな。

まあ、野暮なことを言わずに、純粋に楽しめばいいとは思いますが。

2013年9月4日水曜日

シンデレラ・リバティ

Youtubeを徘徊していたら、こんな曲を発見。昔読んだことのある小説と同じ題名だったので、なんか関係有るのかと興味が出たので聞いてみる。

歌の方はクールスという「不良」をコンセプトにしたバンドによるもので、もう30年以上もメンバーを変えながら存続しているのだそうだ。舘ひろしとか、岩城滉一が初期メンバーで、横山剣も一時は加入していたらしい。

私は横山剣という人は横山やすしとか、横山ホットブラザースといった大阪のお笑い芸人関係者を出自としていると思っていたので、こんなに昔から音楽畑で活動していたのだということを知っていささか驚きである。

それはさておき、この曲をざっと聞いた限りでは小説の「シンデレラ・リバティ」とは何の関係もないようだ。単に門限のある女の子を口説く歌である。小説の方は、70年代始めにダリル・ポニクサンというマイナーな小説家によって書かれたもので、米海軍水兵の帰隊門限を意味する隠語が題名の由来。浅田次郎にも同じ題名の短編小説があるらしく、こちらは彼の自衛隊体験を書いたもののようで、どうも日米軍事同盟は同じ隠語を使っているらしい。

主人公は神学校を出たものの、自らの語るあまりに軽い神の言葉に人々が簡単に感激してしまうのに嫌気が差し、神父にはならず一介の水兵として海軍に入隊する。夜12時までの自由時間に水兵仲間と盛り場を彷徨くうち、あるシングルマザーと出会う。彼女と子供の世話に「シンデレラ・リバティ」の時間すべてを捧げる主人公だが、女性はある日子供をおいたまま姿を消す。細かな所は違っているかもしれないが、おおむねそんな話だったように思う。

神を捨てた主人公が裏切られながらも無償の愛に目覚めると言う内容なんだが、それにしてもひどい話だと思ったものだ。後年、この主人公と全く同じような体験を通じてうつ病になってしまった人を診療する機会があった。一緒に暮らしていた東南アジアからきた風俗女性に、自分の子供でもない二人の子供を残され、ある日突然去られてしまった男性の症例である。

私ならこの状況を耐えることが出来ないかもしれないなと思うのに、その患者さんは打ちひしがれながらも、何とか立ち直っていったのに驚愕したものだ。毎日の生活費にも窮しながら、消えてしまった女性への恨み言葉ひとつ言わず、幼い子供たちを育てるその男性を見ていると、無償の愛というものはとてつもないパワーをその持ち主に与えてくれるのかもしれないな、と思ったものだった。

2013年9月1日日曜日

評判の良い中華料理店

昨日は上の娘が帰ってきたので、例によって手作りディナーを、と思ったが暑苦しくて作る意欲が出ず、前から気になっていた駅前の中華料理店に出かける

そこは四川料理を標榜しているのだが、それ以上に「化学調味料を極力つかわない」というのを店のポリシーとしているらしい。

FBなどでも絶賛されていることが多いので、一度は食べておこうと思った次第。鶏、豚、点心、ちょっと見栄を張ってフカヒレ、北京ダックと、実に品よく仕上げられた料理を頂く。

味は上品かつ細やかで微妙な彩りに満ちているのだが、正直言って、我が一族の馬鹿舌にはちょっとおとなしすぎるというのが食後の感想。ついついテーブルの上に塩コショウの容れ物や醤油差しがないかと探してしまうのだった。

少々高めの価格設定にもかかわらず、トータルでは結構満足したとは言えるものの、また来ることがあったら、こっそり味塩コショウの携帯容器を持参しようと固く決心して店を出たのだった。

2013年8月22日木曜日

月の光

Googleのタイトルロゴが満月の動画だったので、確か昨日が満月だったから、そのせいかと思っていたら、ドビュッシー生誕151年記念とのこと。

えらく中途半端な年限の生誕記念タイトルロゴである。去年150年記念なんてやってたかなぁ。勿論、満月ごとに記念ロゴなんか作らないのも当然なんだが。

私事で恐縮ながら、私はこの季節の満月には実は少々過敏なのだ。長年患っていた妻が最後の入院をしたのが数年前のちょうど今頃だった。その夜、付き添いから帰る頃、病院の真上に満月がでていて、ドビュッシーの「月の光」が聞こえてきそうな雰囲気だった。結局彼女は次の満月まで入院生活を続け、あまり長いとはいえない生涯を閉じた。

たいして時間もたっていないのに、病理解剖やら、死後の様々な手続きやらを済ませたあと、遺体をどう扱っていたのかと言うあたりの記憶が綺麗に欠落しているのが不思議だ。狭いマンションに連れ帰っていたはずもなく、葬儀屋さんに預かって貰ったんだろうなぁ。なのにそれでも帰り道に見たその夜の満月ははっきり覚えている。

この季節の満月のたびに感じていた寂寥感も、ドビュッシーの伴奏付きならもう少し過ごしやすいものになるかもしれない。そんな切っ掛けを与えてくれたのかもしれないGoogleに感謝しておこう。

2013年8月16日金曜日

あなたは日本で何番目のお金持ち?

小飼弾さんのブログ、"404 Blog not Found"に面白い記事があった。金融資産総額を入力して、日本で何番目のお金持ちかを計算するJavaScriptである。恥知らずにも、そのままコピペして下に貼り付けてみた。

小飼氏によれば「資産分布はパレート分布に従う」のだそうで、パレート指数を決めるには資産額の平均と中心値が判ればよく、後は累積を出せば日本の総人口から順位が決まるのだそうだ。

ほとんど理解は出来ないが、Scriptは面白いので私の乏しい老後資金現在額を入力してみる。予想通りかなり後ろの方に並んでいるので、このままボケるまで勤めて貯められる額のギリギリあたりを想定して入力。それでも日本にはたくさん金持ちがいるんだなぁ、という感想が得られるばかりであった。

そりゃ個人金融資産は総額1506兆円と報道されるぐらいだものな。なんだかアホらしくなる真夏の夕映えである。
金融資産 円をお持ちのあなたは、 日本で19116番目の金持ちです。

2013年8月14日水曜日

半沢直樹

「半沢直樹」というTVドラマが人気なんだそうである。30%近い視聴率を稼いでいるそうで、TV離れが囁かれる昨今、関係者は笑いが止まらぬことであろう。私はTVを殆ど見ないので、ウエブサイトの予告編みたいなのをちょこっと見ただけであるが、確かに面白そうではある。だからといってTVを観ようとは思わないけど。

私が興味をひかれるのはその題名である。日本人のフルネームが題名なんてドラマが今までそんなにあったであろうか。その昔「刑事コロンボ」という米国産ドラマが放映されていたが、その原名は"Columbo"であった。何かのエッセイで、日本ではせめて「刑事」とつけないと、単なる個人名だけを題名にするのは無理だと書かれてあったのをいまだに覚えているのである。

例えば、「明智」とか「金田一」という推理ドラマを想像できるだろうか、日本人はやはり機能的な修飾語がない個人名を表に出すことには抵抗があるのだ、というような論法であったように思う。ところが今回の半沢直樹である。「銀行員半沢直樹」ですらない。個人名だけで世間と対峙する姿勢丸出しなのである。

そもそも、海外の文学作品や映画のタイトルには個人名のみ、というのは結構ある。歴史上の人物を除いて思いつくのは、フルネームだけでもジョン・カーターとかジャッキー・ブラウンとか、アニー・ホールなどなど。えらく恣意的だが、時間をかければもっと指摘出来ると思う。

その点、日本では文学作品、それも森鴎外には歴史上の人物名をそのまま作品名にした小説は何点かあるが、夏目漱石には苗字なしの「三四郎」があるぐらいである(私は長いことあれが『姿三四郎』の原作だと思っていた)。その後の作品名にも歴史上の人物名は出てくるが、創造された人物名を題名にした小説や映画と言うのは、それこそ姿三四郎(これは皆が周知のモデル小説であったらしいが)以外は寡聞にして知らない。

これは「課長島耕作」あたりから、フィクションの中であっても少しずつフルネームで世間と対峙する主人公が存在感を主張するようになり、やがてその職名すら不要になるパラダイムチェンジが起こってきたのであろうか。

私もその末端にぶら下がっている団塊の世代に対する、あまり根拠があるとは思えない批判がその背後にあるように思われるのが少々気にはなるのだが、この日本で何らかのグローバルスタンダードな人と社会との関わりに関する変化が起こる兆しなのかな、と思わないでもない。

2013年8月13日火曜日

100匹目の猿、あるいは底辺労働者蜂起

コンビニやファミレス系のアルバイト職員が、自分が働く現場にある冷蔵庫に入っているところを撮らせた画像をSNSにアップして炎上という事件?がこの7月ごろから相次いでいるのだそうだ。

先日はブロンコビリーという、田舎者は聞いたこともない首都圏のステーキハウスでも同じようなことがあり、運営会社はその事件があった支店の閉店を決め、バイト従業員に賠償訴訟を起すことを決めたという。

たかが2ヶ月ぐらいの間に、全く同時多発的に横の連絡もない人々が同じような事件を起こし、しかもそれが愉快犯というより、かなり不愉快な反応を事件主体当事者に引き起こしているのにあえて繰り返されているというのに私は不思議な感覚を覚えた。

まるで攻殻機動隊のstand alone complexではないか。しかし電脳ウイルスが人々を操る前提となる個人の電脳化が全く進んでいない現状ではそんなこともありえない。擬似神秘主義の立場からは100匹目の猿現象をこれに当てはめる意見もある。新奇な行動をおこす個体が一定の数を超えれば、それは文化として定着すると言うヨタというか意見である。

でも、あの「100匹目の猿」というのは、ニューエイジサイエンス研究者?のライエル・ワトソンがニホンザル集団の観察記録を勝手に改竄利用してでっち上げたものであることは既に証明されているしな。いまだに持ちあげているのは松岡正剛ぐらいだろう。

ウェブ内の意見で最も感心したのはド・ブロイ理論を援用して、波と解釈されるコンビニ店員が地球温暖化によるポテンシャルエネルギー上昇により、ある閾値を超えたためにトンネル効果が生じ、古典論ではありえないとされていた冷蔵庫内で観測されるに至ったという意見。よく判らないが傾聴に値する。(リンクとそれに対するコメント)

社会理論的には、アベノミクスによって流動化が決定的となった底辺労働者が、自らを冷蔵化することで流動化に抗しようとする自然発生的反抗行動なのかもしれない。SNSへの発信と結果としての炎上も「連帯を求めて孤立を恐れず」という動きの一環なのかもしれない。

2013年8月10日土曜日

愛犬探しのチラシ

自宅の郵便受けにこんなチラシが入っていた。ベースの紙はPPC用紙ながら、カラーレーザープリンタで印刷されていて、おそらくプロの手が入っていると思われるデザインは普通の宣伝チラシと遜色ない。

この犬がいなくなったのは私の家から10km以上離れたところなので、かなりの範囲に撒かれたものとおもわれる。たまに電信柱やスーパーの掲示板に迷い犬や猫の問合せが貼られているのを見るが、ここまで大規模なのは初めて見た。余程愛されていた犬なんだろうな。うちのノエルがいなくなっても、ここまではやらんだろう。

そのくせ逃げちゃった、というのが多少解せないが、何かでパニック起こして、闇雲に走り去ってしまい、自分の居場所がわからなくなるということもあるのかもしれない。

10日前にいなくなったそうだが、この炎天下、何事も無くこの犬が飼い主のもとに帰れることを祈りたい。チラシの画像にぼかしを入れるかどうかについては一寸考えたが、飼い主に確認したわけでもないので個人情報に関係する部分にはフィルターをかけておいた。

2013年8月8日木曜日

Famous Eyeglasses

イタリア人マルチメディアデザイナー、フェデリコ・マウロ氏による掌編ビデオ"Famous Eyeglasses"。

メガネで有名な実在人物、創作上の人物(のメガネだけ)が次々に音楽、もしくは音声とともに表示される。

なんだかさっぱり判らんものもいくつか混じっているが、なんとなく判るものもあるので、ちょっとした頭の体操になるかも。

ちなみに私の正解率は21問中16。音響が結構ヒントになりますね。判らんのは観たことのない映画のキャラとか、イタリアの有名芸能人だったりするんだろうけれど、シルビオ・ベルルスコーニにはお手上げ。画像検索してみても、あんなサングラスしている所は見つからなんだ。

2013年8月2日金曜日

バルス祭り?

今夜はどこかのTV局で「天空の城ラピュタ」が放映されるそうで、その際にtwitterなどで組織的に、物語内で使われる滅びの呪文、「バルス」を皆で呟こうという大衆的示威行動?が提唱されているのだそうだ。

滅多に見ないネットニュースに書いてあったのでどこまで本当かどうか知らないが、選挙などではほとんど無力なネット大衆行動が、こういうあまり意味があるとは思えない所で成立するかもしれないというのは、ある意味ネットの潜在的パワー示威になっているのかもしれない。

今のところは悪ふざけしかしないが、気分が向いたらもっとヤバイことまで出来ますぜ、というメッセージがこの手の悪戯にはたっぷり込められているように思える。というか、「そうであってほしいな」という爺さまの願望が99%なんだけれどね。

それは別にして、緊急時の秘密パスコードがたったの三文字という、ラピュタのセキュリティ対策には少々問題があるように思える。「友達の家に来てみれば留守だった」とか「いまバル、すぐ来てよ」にいちいち反応して崩壊していたら、兵器としての信頼性はほぼゼロである。

一般社会において、そうしたセキュリティホールにうまくつけこんで、かつ社会的に有用となるような示威行動が存在し得るか、と言われると一寸無理なようには思える。当面はつまらぬ悪ふざけ程度が続くだけなのかもしれない。勿論、永遠にそれに終わるだけである可能性も高い。


2013年7月30日火曜日

ソニー号空飛ぶ冒険

またまた宮崎氏のブログからの剽窃。60年代初期、TV創世時代の思い出話なので、爺さまの昔話はかなわんよと思われるのは必至であろうが、あえて触れさせて頂く。

このドラマは小さなヘリコプター運輸会社を営む二人の主人公が個人や警察の依頼のままに様々な冒険と出会う話なんだが、本家では1957年に第一シーズンが始まっていて、ヘリを使うスタントがまだ珍しい時代、けっこうな人気を得たシリーズだったようだ。

日本でもほとんど遅れることなくほぼ同時期に放映され、TVを買ったばかりの我が家では30分番組ながら(この時代のTVドラマは和洋問わずほとんど30分ものだった)、毎週楽しみに見ていたものだった。

向こうの原題は"Whirlybirds"、"Copter Patrol"と呼ばれる場合もあるらしい。Wikipediaでは英国とイタリアでも放送されたとあるが、日本での放映については触れられていない。その時代は日本など意識されていなかったのであろう。

ましてや勝手にヘリにスポンサーの名前をつけて、番組の題名にして、日本だけの主題歌をつけるなんてことはまず、グローバルスタンダードなんて関係なかった時代だったからこそ許されたのだと思う。ちなみに、元の番組ではヘリには単なる機体番号しかついていないらしい。

私にとって一番不思議なのは、この番組を見ていた当時から、鉄骨みたいな機体の尾部に"SONY"とデカデカと書かれていたという視覚的記憶があることなのである。番組内のセリフやら、主題歌で「ソニー号」と何度も聞かされていたので錯誤記憶が形成されたのか。しかし、そんなことでアルファベットの視覚記憶が生じるものだろうか。マウスに電気刺激の偽記憶を作るのとは違うのである。

あの時代、後から動画に書き込むことは手作業でやるしかないだろうし、もしそうしたとすればかなり不自然なものになったのは間違いない。でも私の記憶の中のソニー号は、機体と一体化したSONYのロゴをつけ、今も私の辺縁系あたりを軽やかに飛び回っているのである。

2013年7月29日月曜日

上行大動脈解離手術の予後に対する季節と月齢の影響について

「月齢と季節が上行大動脈解離手術の予後に及ぼす影響については、広く知られているとはいえない。我々はこれらの院内死亡率や術後生存者の在院日数に対する影響を調査した。」

季節はとにかく、月齢が心血管手術に及ぼす影響など誰も知らないし、そもそも知ろうとも思わないような気がする。それを大まじめにやったのがこちら(リンク先はpdf)の論文。

この論文はロードアイランドの州都プロビデンスにある二つの病院で1996年1月から2011年12月までに上行大動脈解離で手術を受けた210名の患者について、入院時(緊急手術を要する疾患なので、同時に手術時でもある)の月齢と季節を調べている。被手術者は解離修復のみ(多分人工血管置換するんだろうが…、よく知らない)を受けた群と、同時に冠状動脈バイパス術を併用した群の二群にわけられ、それぞれの院内死亡率、在院日数について、月齢、季節双方との関連を見ている。

その結果、冬に死亡率が高い傾向は見られたものの統計的に有意とはいえず、有意性が示されたのは症例の年齢(勿論、高齢なほど死亡率が高い)、糖尿病の有無、そして、月齢であった。とりわけ月齢、それも満月から下弦の半月までに手術を受けた症例の死亡率は明らかに低く、統計的有意性も最も明らかであった。

新月から上限の半月を経て満月に至る時期と、下弦の半月から新月に至る期間の死亡者数が10前後なのに比して、満月から下弦半月までの期間の死亡者は4であった。著者たちは月の重力による潮汐力が体内の血流動態に影響をおよぼすのではないかという考察を行なっている。まあ、明日は満月と言う日と、満月の日で何が違うというのだろうという疑問は残る。

思わずエイプリルフール論文ではないかと思って、提出日をみたら今年の2月で、受諾されたのは6月だった。昔、ロードアイランド医学健康雑誌に掲載されたという「パーキンソン病発症リスク要因としてのエイリアン・アブダクション」というエイプリルフール論文の題目を見つけ、必死に元論文を検索したがなぜかその号だけが保存されていなかった、という経験があるので、もしかしたらロードアイランドという所は医学的プラクティカルジョークが奨励されている土地柄なのかもしれない。

何であれ、もし大動脈解離という大病に見舞われることがあったら、病院に駆けつける前にまずその日の月齢を調べるのを忘れずに。まあ、満月期でないから手術なんか受けないとごねていたら、ほぼ確実な死がやってくるだけのことなんだけれど。


2013年7月25日木曜日

新宿へ……。

知り合いから来るべき老後生活の安定に関する一提案を頂き、新宿の某地まではるばる打ち合わせのためにお出かけ。

目的地の近くに、こんな彫刻というか、ランドマークというか、ちょっと言葉に詰まるモノがあったのでお上りさん丸出しになって写真を撮る。

多分、立体トリックアートになっていて、見る角度を変えたら"hate"になっていたりするのだろうと思ったが、そんなことはなかったので著しく落胆。愛-失望-憎しみ、なんて具合に眺める角度で変化して見えたら最高なのに。

肝心の老後生活充実計画の方は、提示されたものがあまりにこちらの常識的考え方を超えていたので、今のところなんとも決断できなかった。自分のキャリアにもそろそろ先が見えてきているし、アベノミクスにカモにされる前に、何らかの発想の転換が必要なのは判るのですがね……。仄めかしばかりの記述でごめん。

     炎昼に 群衆は耐え LOVEも耐え

2013年7月24日水曜日

Good old days

私がかねてより畏敬の念とともに拝読させていただいている医師ブログ、「日日平安録」にこんな記事があった。それによれば「製薬会社が医療機関や医師に提供した費用などを公開しようと」する動きにたいして医師会がそれに反対し、本来ならこの5月に公開されるはずのものが延び延びになっているのだそうだ。 

最近ファイザーという会社が単独で公開に踏み切ったそうで、その資料では「研究開発費などが116億円、原稿執筆料などが11億円」、接待費だけでも億を超えているそうである。ファイザーといえばバイアグラで有名だが、向精神薬も結構出していて、抗うつ剤のジェイゾロフト、抗不安剤のソラナックスあたりが有名どころであろうか。

実際私のような窓際医師には、製薬会社がどんな形であれ金銭を潤沢に提供して来るようなことは考えられず、たまにボールペンかティッシュペーパーを頂く程度である。それも最近すくなくなった。もしかしたらああいうのも自主規制の対象になったのかもしれない。

 たしか一年前ぐらいに、製薬会社の販促社員が医師に飲食接待をすることも禁じられたはずである。主体は誰で、どんな権限でそうしたのか、と言うところまでは知らない。刑法に抵触するようになったわけではあるまい。多分、業界の自主規制なんだと思う。

ちょっと前までは「新製品説明会」というような名目で、何かの会食のスポンサーを申し出てくれていたのがナシになったので、私などはここ一年まえから、説明会名目で高級料亭やらレストランに行く機会は全くなくなった。どうせ接待されてもどこの製薬会社だったか、帰る頃には忘れているし、そもそも自腹でそんなところに行くこともない。 

それでもここ10数年間ぐらいの接待ルールというのは結構つましいもので、野放図にタカリのごとき接待を要求するような医師や、それは贈賄だろうというような利益提供をする製薬会社を少なくとも私の周りで見ることはなかった。そんなことを言えば昔はあったのだろうといわれるだろうが、その通りあったのである。

私らはあまり利権を生むほどの高額薬剤を大量に使うことがない診療科なので、それほどたいした誘惑もなかったが、高価な抗生物質や抗癌剤を多量に使う診療科では、製薬会社の提供する資金を上手く手に入れることが医局派閥運営に大きな影響を持っていたのである。 

私も弱小医局の経理を任されていたことがあり、研究用図書を揃えるために、あまり感心しない手法で症例報告を量産したことがある。もちろん、嘘を書くわけではなく、ハッピーケースをメインに報告するのがその手口。今のようにランダム化手順などが確立されていなかった時代だったからこそ可能なのだが、今思い出してもあまりいい記憶とは言えない。だから、いまだに「新薬XXXの有用性」というような提灯持ちが明らかな論文は全く信用しない。 

いずれにせよ、製薬会社が大学や医療機関、個別医師に提供している資金の公表は必要なことであろう。私はそれらが総額では結構な額になるとはいえ、個々の額はささやかなものであると信じたい。でも、もし呆れ果てるような多大な額であったとすれば、私の関わったような窮余の策で弱小医局の研究費として得た僅かな金銭でいまだに感じている良心の呵責を、多少でも和らげてくれるかもしれない。ちょっと都合良すぎるかな。

2013年7月21日日曜日

選挙前日予想

以前、しょうもないブログをやっていた時、選挙のたびごとに結果予想をしていて、結構当たることもあったのでまた性懲りもなくやってみようと思う。予想の根拠は単なるこちらの思い込みだけ。外れても何の責任も取りません。

まず、あまり面白くもないが自公の過半数勝利は間違いないだろう。しかしマスコミの言うような圧倒的勝利には至らないというのが私の意見。あまりの好条件、それも別に自分たちが苦労して創りあげたわけでもなく、単なる敵失で得られた優位性に調子に乗りすぎていると見る有権者は多いだろう。

民主党はボロボロにはなるだろうが、それなりの基盤は維持するというのも私の予想。彼らは政権担当能力の乏しさを露呈はしたものの、それは官僚たちとのコミュニケーション能力の不足、労組への過剰な依存が問題なのである。労組と距離を置けないその姿勢が、より凋落を加速しているという洞察に乏しいのが致命的ではあるのだが。

機を見るに敏な連中、みんなとか維新(この人たちは結局そのタイミングの見計らい能力すらないことを自ら露呈したわけだが)は惨敗。生活、社民はなにそれ美味しいの、で終わるだろう。幸福なんとかには触る必要なし。教主が頭にきてサリン撒いてやると言い出さないか、多少不安。

問題は共産であるが、ここは侮れない。基本的には社会的ネグレクト層の期待を担ってそれなりの支持をとるはずだが、正直言って自公の示す「改革」のほうがダイナミックなのである。共産の「前衛-大衆」路線と似たようなものながら、自公が巧みに隠しながらも露骨に導こうとする「支配者-被支配者」路線のほうが、より徹底的に映るのである。

被支配者に終わるしかない大勢の脳天気がそれを支えていて、共産支持者のほうはそんなことにはだまされないだろうが、限界はどうしようもない。結局は55年体制の自社よりはギスギスしつつ、補完体制を形成する程度に終わるだろう。

ナチス台頭を許したワイマール共和国の教訓を活かそうとするなら、投票は自公への現実的批判を展開できる勢力、もしくは最悪自公内であってもそこで批判的態度を維持できる個人に向けられるべきであろうと思う。

2013年7月19日金曜日

携帯電話が見つかった

一昨日前、仕事中にドコモから電話。ピンクパンサーのテーマ曲なんぞを携帯の呼び出し音にしているので、患者さんの家族の前で大恥。だって、普段電話なんか病院支給の業務用PHSにしかかかってこんのだもの。

優しい声のお姉さんいわく、あんたが落としたと言っていた携帯電話が届けられている。出来る限り早く、住んでいる場所から3つ離れた街まで行って、引き取るように。たしかに新しい携帯電話は保険の契約上そちらに届けたが、契約上落としたものが見つかればすみやかに返納することになっている。返納されない場合は違約金が発生するので覚悟するように、と。

なお、届け出られたのはJRの構内だったのでまず3つ向こうの駅に行き、所定部署で書類を作ってもらい、それからその街の警察に行って引き取るように。引き取らず、返納もされなければ違約金が…。はいはい、よく分かりました。明日中に手続きさせて頂きます。

そんな訳で昨日はせっかくの平日休みを潰して10数キロ離れた街まで、携帯電話の引き取りに。その街は戦災で丸焼けになったおかげなのか、湘南と呼ばれる辺りでは例外的に都市計画が徹底し、やたらに道が広く景観もよい。なんか、昭和40年台の名古屋を思い出す無機的町並みである。残念なことに人口はそれほど増えず、かなりもの寂しい。

それでも駅前の無料駐車スペースは狭く、結構離れたところにえらく高いパーキング・メーターを見つける。30分かけて書類を作ってもらい、まだ200円分残っているメーターを恨めしく眺めながらちょっと離れた場所にある警察に。なんとか携帯電話を貰い受ける。

これなら見つからなんだほうが良かったかなぁと、罰当たりな感想を持ちかけるが、私の手に戻るまで、見つけてくれた普通の人達の正直な態度と、公的機関の無私で真面目な仕事ぶりはこの国にいるからこそ享受できるものなのだと考えなおす。妙な画像ばっかり入っているSDカードも回収できたしね。

2013年7月16日火曜日

LAヴァイス

昔、と言っても40年ぐらい前のこと(充分昔だ)、友人が「重力の虹」という分厚い二分冊の小説をいつも持ち歩いていて、その文学趣味の深遠さをアピールしていたものだった。

その内容を尋ねると、時空を超越した、物語という概念そのものへの挑戦とでも言うものなのだという返事。なんだかよく判らない。

そもそも一度にどうして二分冊の小説を持ち歩くのだろうとこちらは不思議に思い、もしかしたらアピールだけで読んでないのではないかと訝ったものだが、おそらくその疑問はあたっていたと思う。トマス・ピンチョンという小説家はそんなふうに私の前を横切り、40年間忘れられていた。

たまたまアマゾンのマーケットプレイスでピンチョンの新作(と言っても4年前)であるLAヴァイスなる小説が安売りされているのに気づき、早速買い込んだ。買った理由は昔の記憶以上に、カバーの画像。なんだかグランドセフトオートの包装を思い起こさせるものだったのが大きい。

時代設定は70年代初頭のLA。元ヒッピーで今もマリファナ漬け私立探偵ドックのところに、昔の女が訪ねてくる。「助けがいるのよ、ドック」。このハードボイルドお約束てんこ盛りにたまらず後を読み続けたのだが、さすがにポストモダンと言われる作家だけのことはあって、並の努力では読み通せなかった。

筋書き自体は典型的ハードボイルド探偵小説であるものの、とにかく当時のサーフ・ロックやTVショーのトリビアとか、ドックの幻覚やら妄想観念への言及が入り乱れる。格調の低いドストエフスキーかジェイムズ・ジョイス(両方とも本気で読んだことはないが)、エロさでは同等のヘンリー・ミラーあたりのくどさと付き合う決意が必要。

それでも探偵小説としての筋書きは見事に完結し、その後になんだかよく判らないまま、物語そのものへの懐疑というか、そんな独特の読後感を残す怪作といえるのかもしれない。単なる難解小説家の筆のすさびと言う説も有力ではあるが。

それでも私はこの小説と出会えたことを純粋に喜びたい。というのも、ピンチョンは日本の怪獣映画への造詣も深いらしく、この小説のなかで64年の東宝映画「三大怪獣 地球最後の決戦」についてのトリビアを添えてくれている。そこでピンチョンはこの映画が「ローマの休日」のリメイクであることを喝破しているのだ(まあWikipediaでも指摘されている事だが)。

私は中学二年の時この映画を見ているのだが、当然「ローマの休日」はまだ見ていなかった。TVの洋画劇場でそれを観た時、どうにもデジャブ感がついて回って弱った。その理由がやっとわかったことだけでも、ピンチョン、只者ではなかろうと感服してしまうのである。

2013年7月14日日曜日

スウィングしなけりゃ意味がない

「スウィングしなけりゃ意味がない」というジャズのスタンダード・ナンバーがあるが、村上春樹の音楽評論本には、これをもじった「意味がなければスイングはない」というものがあるらしい。

元の曲名を命題と捉えるなら、村上春樹の本の題名は元の逆命題ということになり、当然、真偽値は一致しない。

元命題と真偽値が同一であるためには、その対偶をとる必要がある。この場合は「意味があればスイングする」となる。意味があることがスイングの十分条件だということだ。言うならば、意味がなくてもスイングする場合があるということが、対偶に変換することで明示的になったと言える。

村上本題名では、この「意味がなくてもスイングする場合がある」ということが否定されてしまうことになる。確かに、音楽について言語的に語ろうとしている時、「理屈なんかなくったって、ノリが良ければいいじゃん」と言う意見ばかりでは本になりませんわね。

もっとも、音楽なんてものは意味などとは無関係に楽しまれてきたものではないかな、とも思う。勿論、ここで言う「意味」と、曲名にある「意味」はかなり違うものであることは承知の上なのだけれど。

たまにはややこしい事を考えてみようと思ったが、連休二日酔いモードでは上手くまとまらない。

2013年7月13日土曜日

スマホ紛失

一昨日の観劇のあと、友人たちとちょっとした飲み会を開いた後、湘南新宿ラインで帰宅したのはいいのだが、自宅の最寄駅に着いて改札を出ようとしたら、携帯電話がどこにも見当たらない。

電車に乗るときモバイルSuicaを使ったはずなので、要は電車の中で紛失したことになる。酔っぱらいの典型的オヤジとなってグースカ寝込んでいたからな。手から取り落として、シートの隅にでも転がり込んでしまったのか。

ホームの落し物窓口に届け出て、出てきたら連絡してもらうことになったが、翌朝再度問い合わせると、昨夜の車両係も気づいておらず、乗客からもなんの届け出もない。終着駅の車両基地で調べたが落ちていなかったとの返事。

考えてみれば、失くした直後にGPS機能でどこにあるかを調べてもらえばよかったのだが、そこまで考えが及ばず、翌日ドコモに連絡した時は既に電池切れ状態だった。24時間ギリギリしか持たない電池というのも困ったものである。持っている人間が一番困ったものなのはわかっているのだが。

紛失時の保険に入っていたので、数千円未満の負担で同じ物が翌日の夜には送られてきた。結構な保証制度である。それはいいとして、設定とアプリの復元作業やらSuicaの再発行やらで一日中仕事もそぞろ。それほどの経済的ダメージはなかったとはいえ、こうして一つ一つの過去を失っていき、やがて未来もなくなる日が来るのだな、という感慨を深めることになった今日一日なのだった。

2013年7月11日木曜日

「盲導犬」観劇

渋谷Bunkamuraシアターコクーンに唐十郎-蜷川幸雄コラボ演劇「盲導犬」を友人たちと観に行く。

田舎者は渋谷という街の雰囲気にすでにビビってしまい、圧倒的アウェイ状況で萎縮してしまいそうになる。負けてなるものかと無意味に緊張するので芝居以前に疲労困憊。

この芝居は唐十郎が、70年代初頭、小劇場を立ち上げては潰し、演劇界の小沢一郎と呼ばれていた(嘘)蜷川幸男のために書き下ろしたもの。観たこともなければ、唐の戯曲集で読んだこともない。まあ、当時唐は犬が象徴的テーマの芝居をいくつか書いていて自分の劇団で上演していたような気もする。

今日観てきた直後でもなんだかよく判らん話なんだが、盲導犬に象徴される服従と非服従をめぐる物語だったようだ。これが70年代初頭という社会的状況では、それなりの脈絡を観客が勝手に感じ取ったのだろうが、今となってはそのニュアンスも希薄。いわゆるアングラ劇のエネルギーを受け継ぐ役者が乏しいのも致命的。宮沢りえはやはり可愛いのだが、いったい彼女は何を目指しているのか、多少不安に感じないこともない。

70年代当時の唐十郎としても多少この芝居は不完全燃焼というか、唐らしいイマジネーションと言葉の遊びと物語性の見事な混交があまり成功しているとは言いがたい。S席で9500円払って、え、これで終わり?というのが正直な印象。たちの悪い風俗店でカモられた気分である。まあ、行ったことないのでよく判らんのだけど。

ちょっと疲れたので、Face Bookにアップした文章をほとんどそのまま投稿。

2013年7月8日月曜日

今日のグーグルロゴ映像「ロズウェル事件」

1947年7月8日、ニューメキシコ州ロズウェル陸軍飛行場が、付近の牧場から墜落した「空飛ぶ円盤」を回収したと発表。

軍はその直後にそれを否定し、回収されたのは気象観測気球であったと訂正した。

そのわざとらしさが世の人々の疑惑を呼び、有象無象のでっち上げやら仄めかしが横行し、米国政府は異星人とコンタクトをとっているにもかかわらずそれを隠蔽しているという神話がはびこる嚆矢となった。

いかにもハリボテじみた異星人の解剖映像とか、様々な目撃証言などがほぼインチキであったことは証明されているのだが、権力による真実の隠蔽という神話化しやすいテーマのおかげで、今日になってもなお喧しい議論が絶えないのはご承知の通り。

さすがにグーグルのロゴ映像はそんな神話化論調に乗っかるものではなく、噂話の記念日として、5分ぐらいは楽しめる気の利いた小ゲームにまとめてある。ゲームの結末では宇宙人はUFOを修復して帰っていくので、少なくともグーグルは、UFO墜落、生存宇宙人の拉致と言うストーリーは信じていないようですな。

   UFOの墜落を見たと君が言ったから7月8日はロズウェル記念日

2013年7月6日土曜日

ありあわせディナー

下の娘が急に帰ってきて、明日はこの近くで資格試験があるので今日は泊まっていくとのこと。

先日、私の誕生日にも娘が帰ってきて一緒に食事をしたのだが、それがあまりにありあわせだったので、今日はもうちょっとマシなものをと思って作ったのがこれ。

バーニャカウダ風ディップ添えサラダにキャベツとアンチョビのパスタ、メインはホウボウのアクアパッツァ。全品にアンチョビとニンニクがたっぷり入っているというシロモノ。ちょっと色彩感が乏しいのが反省の第一点。

毎年、近くの漁港でシコイワシを調達して自家製アンチョビを大量に作るのが習いになっているので、とにかくアンチョビを使う料理は第一選択になる。味もまあ、なんとか許せる範囲に収まっているように思える。それでシャンパンを開け、まあ気分だけはリッチなディナーとなった。

その後、コニャックでもと言いたいところだが、そんなものはどこにもなく、ちびちび焼酎なんかを飲みだすのが少々情けないところ。

2013年7月5日金曜日

クロネコからのプレゼント


注文した覚えのない宅配便が配達される。そこそこの大きさの割りにえらく軽い箱には「クロネコポイント」と書かれている。

そうだった。一人暮らしで、やたらに宅配便を利用する私はクロネコメンバーズというのに加盟していて、配達予定連絡や配達時間の変更などのサービスを受けていたのだった。住んでいるマンションには宅配ボックスがないもので。

品物が送られて来るだけでもポイントが溜まって、プレゼントと交換出来るというのを先日知り、欲どおしくも送付を依頼していたが、何を頼んだのかは全く忘れていた。大概のプレゼントは「抽選で何とかが当たる」と言うものだったので、くじ運の悪さには自信がある私としては、確実にモノがもらえるものを選んでいたのだった。

大きな箱を開けてみると…、中にごく小さな箱が固定されていて、その中からさらに小さな宅急便配達トラックのミニチュアが出て来る。もしかしてUSBメモリーになっているとか、デジカメ機能が付いているかもと、しげしげ眺めてみるがそんなことはない。一応、後部ドアだけは開くようになっていた。猫も本家クロネコからのダンボール箱には興味を示したが、このミニチュアは無視。

まあいい。今年の誕生日にもらった唯一のプレゼントだと思っておこう。それにしてもこの余裕ある梱包は、輸送効率というものを考えた上で最適化されているのだろうか。Amazonからの配送を見るたびいつも考え込んでいたのだが、クロネコ本社自体がこの路線を進めているんだろうか。いや、何も箱いっぱいのプレゼントを期待していたわけではないんだけれど。

2013年7月4日木曜日

ロシアのタンポンCM?


シモネタということになるのか、今ひとつ自信がないが、最後までオチを予測するのが困難な点がなかなか秀逸であると思える。Movie 43という米国のコメディアンソロジー映像からの引用らしい。

何故かナレーションがロシア語のように聞こえるんだが、ロシアでCMとして使っているかのように装う、というねじれたギャグ感覚なんでしょうな。

2013年7月3日水曜日

カフカ生誕130周年

Die_Verwandlung

グーグル記念画像シリーズ続編。

今日はカフカ生誕130周年であるそうだ。高校生の頃だったか、カフカにえらくハマった時期があり、今の商売を選んだ理由の一つにもなっている。

もっとも、今の仕事に就いて判ったのは、カフカが描いたような不条理含みな不安など、市井の人間の実際の苦悩とは全く無関係であること。疾患性を帯びた不安ですら、人間の不安というのはえらく判りやすいというか、ブンガク的な上品さとは無縁なものがほとんどなのである。

そういうことが共有されているのかどうかは知らないが、グーグルの画像もえらく軽いというか、蝶ネクタイをつけたゴキブリ風キャラがカバン抱えてビジネスに勤しむような雰囲気である。変身しちゃったんだし、新しいビジネスチャンス見つけようーっと、と言うような感覚。

カフカが囚われていた、自己の身体的イメージすら維持できなくなるような息詰まる不安というのは、現代には一部を除いて無縁なのかもしれない。かの精神分裂病すら軽症化し、統合失調症なんて気が抜けたような病名で表わされるようになった今日此の頃、カフカには可も不可もつけようがない時代となったのかもしれない。

                                                                                                                                   

2013年7月1日月曜日

Googleの誕生日メッセージ

朝方自分のMacを覗いたら、ホームにしているGoogleの画像表示がバースデイケーキのようなものになっていた。

はて、今日は誰の誕生日なんだろうと画像にマウスを乗せると、なんと私の名前と「誕生日おめでとう」のメッセージが表示される。

はて、これはいかなる仕組みなんだろうとしばし考え、多分Bloggerに登録したついでにGoogle+もアクティブにした結果であろうかと思い至る。そういえば検索のたびに右上に自分の名前が表示されるようになっているが、実のところを言えばあまり気持ちいい体験ではない。

それでなにかデメリットが有るかと言われたらあるわけもないのだが、ビッグブラザーに監視されている気分はやはりついて回る。誕生日のお祝いメッセージが表示されるぐらいでその気持ち悪さは払拭されるものではない。

まあ、いい歳になると自分の個人情報なんぞ屁のようなものであるのは承知するしかなく、誕生日といっても寿命にまたひとつ近づいたかとため息をつく切っ掛けに他ならない。そんなに深い意味を考えることもなく、純粋に一つ歳をまた無駄に重ねたのだなぁという感慨を思い起こさせてくれる機能として、ビッグブラザーの親切というか、お節介を素直に受け入れておきたい。


2013年6月30日日曜日

渋滞の季節

日曜日だというのに朝から職場へ出かける。昼過ぎ用事を済ませて帰ってくれば海岸通りはすでに渋滞になっていた。これから二ヶ月ぐらいはこれが続くのを覚悟しないといけない。

バスなんか絶対時間どおりこないからね。停留所に「この季節は時刻表どおりには来ないから文句を言わないように」と断り書きが張り出されるぐらいで。

勿論、渋滞になる時間帯と方向はほぼ決まっているので、見当をつけて脇道に入ったり別ルートを迂回する選択があるといえばあるのだが、とにかくこの辺りは道が狭く、小型車に乗っていてもかなりの苦労をせまられる。

そんなところへハマーだのゲレンデヴァーゲンだのレンジローバーなんぞの超弩級車を乗り入れて来る人も多く、その上、引退して都会地から引っ越してきたから、運転経験が少ないと言う高年層が多く住む土地柄もあって、裏道や脇道はさらなる混乱を呈するのである。

地元の悠々自適年代の皆さん、歳をとったら軽自動車に乗りましょうね。許せる外車はミニクーパーまで。観光にいらっしゃる方々は江ノ電、小田急を使いましょう。フォトジェニックだと自覚される方が、MGなんかで格好よく通り過ぎるのは問題ございません。




2013年6月28日金曜日

サングラス型コンピュータ

やたらに近未来的なサングラス型端末。Google glassと同じようなものだが、多少洗練されているようにも見える。センサーやネットとどう繋がっているのかがよく判らないけれど。

私は10年ちょっと前までトライアスロンに凝りまくり、年に2回は海外レースに出場するという無茶を続けていた。お陰で心臓を痛めてしまい、スポーツは体に悪いという見本になってしまった。あの頃の体力を取り戻せるなら、魂の一つや二つは悪魔に売り渡してもいいと思うのだが、あいにく買ってくれる悪魔がいないので売買が成立しない。

あの頃からトライアスリートはハイテク好みだった。その時代に手に入る最高の技術製品を殆どの人が取り入れていたんではないかしら。さすがにHUDに現在地を表示するようなものはなかったが、心拍やケイデンス(クランクの回転数)や速度、積算距離を表示するアイテムはみな利用していた。ハンドルバーに付いているサイクルコンピュータを見れば済むことをHUD表示してメリットあるのかなと思わないでもないが、そのへんはやはり気分というものであろう。

海沿いの平坦地でもいいから、またロードレーサーで疾駆してみたいものだと真剣に思う。体調が許せば、というよりせめて10kg減量できたらの話ではあるが。HUD端末の方は…、老眼が進んでいるからどうせ役に立たないような気がする。最新技術が年寄りを考慮してくれていることはあまりないもので。


2013年6月27日木曜日

半日ドック

今日は本来なら「研修日」と言う名の平日休みなのに、関連病院で半日ドックなるものを受けよとの人事部からの仰せ。高齢職員は普通の職員検診ではなく、別枠でタップリと検査を用意するとのことである。

正直言うと、私は健康診断なるものに意義を見出せない立場である。ガソリンスタンドでボンネットを開けろと言われて点検してもらうと、オイルを入れ替えろ、水抜き剤を入れろなどと、いい商売のカモにされてしまうが、あれと健診はほぼ同じコンセプトだと思えるのである。

それに年に一度や二度適当な医学的検査をして仮に病的初見がなかったからといって、それが健康を意味する訳がないとも考えている。健康とはもっと前向きに、自らが主体的に勝ち取っていくもので、医療機関からお墨付きをもらうようなものではないと。だから40代過ぎ頃までは健診はすべてサボっていた。

10年ぐらい前からは仕方なしというか、いい年寄りが勝手なことも言ってられないだろうと嫌々ながらに健診を受けるようになった。少なくとも企業健診というものは医学医療の理念に関わる問題というより、職員を半病人に仕立てるようなことはしていないぞと言う、企業側の人事管理姿勢の問題なのだということを達観したから、とも言える。

とは言いつつ、やはり引っ掛かり感は残る。大体、「ドック」という言葉からして気に入らない。船がドックに入れば検査もするが、それ以上に様々な保守作業も施されるわけである。人間の場合、別に保守作業があるわけでもなく、負担のかかる検査が続くばかり。異常が見つかればかかりつけ医の所で結局同じ検査をするわけで、医療資源の無駄遣い以外の何物でも…。

いやいや、そういう見方はやめにしたのだった。おとなしく半日の苦行に耐え、義務を果たした自分へのご褒美に昼過ぎからワインでも、と瞬間考えたがそれもやめ、掃除と洗濯の休日メニューを黙々とこなしたのだった。でも、便潜血検体に猫の糞を持っていくぐらいのサボタージュは図るべきだったなと、多少の悔いが残らないでもない。


2013年6月26日水曜日

月に向かって小便

大学時代の友人がフランドル旅行に行ってきたとかで、おみやげにとアントワープのマイヤー・ヴァン・デン・ベルグ美術館で買ったメモ帳を送ってきてくれた。

親父のほうのブリューゲルが書いた「十二の諺」の一つを表紙にしたものである。三日月に小便をひっかけているオヤジの後ろ姿で、向こうにはそういう諺があったのだろうが、そこまでは説明されていない。

気になったのでこの絵について検索してみたが、オランダ語以外の記述は見つからず、そのオランダ語の説明も12枚の絵を網羅するようなものはなく、通り一遍の短いものばかりだった。

もしやと思って有名な「ネーデルランドの諺」をみると、まさしくこの絵と同じモチーフが描かれていた。手前の家の真ん中の屋根裏部屋から、看板になっている三日月に向かって小便をしている男を見ることが出来る。

日本語の手の込んだ解説ページもちゃんと準備されていて、それによると「月に向かい小便」というのは、野心ばかり大きくても成功しないと言う意味なんだそうだ。まじめにメモをとる態度など生涯ついに身につかず、その場限りの思いつきで人生を夜郎自大に過ごしてきた私に対する戒めとして、親切な友人が送ってくれたに違いない。有りがたく頂戴して地道な生き方に邁進するよすがとしようと思う。もう遅いけど。

2013年6月25日火曜日

卓上浅漬容器

アマゾンで買った卓上浅漬容器が中々の使い勝手があるので紹介。よくスプリングの力で浅漬を作る道具、なんてのを売っているが今ひとつ景色がわるく、ましてそう使い易いものでもないので台所の片隅でゴミになる日を待つだけになるのものだが、こいつはそうでもない。

中蓋が重しになっていて、好みの野菜を軽く塩もみしてからこれに入れて冷蔵庫で保管するだけ。勿論、酢やハーブを使って簡易ピクルス風にしてもいい。

写真では分かりにくいが、今のところは一個58円の蕪を薄切りにしてクレージーソルトでさっと塩もみして漬けてある。二時間もすれば水が蓋まで上がってきて、蕪の浅漬けが完成している。まあ、栄養としては食物繊維ぐらいで大したことはないのだが、そこは気分というもの。簡易サラダがレパートリーに加わり、ちょっと豊かな食生活をしている気分になる。

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2013年6月24日月曜日

蜂工場

本棚の奥の方に横積みになっていたイアン・バンクスのデビュー作、「蜂工場」を発見。20年以上昔に買っていたはずだが読んだ覚えがない。

イアン・バンクスは1980年代中頃にこの作品でニューホラーの旗手としてデビューした作家。それだけにとどまらず、ミステリーやSF作家としても知られる。と言っても私がそう詳しいわけではなく、これらは数日前にネットで調べたもの。ついでに判ったことは、彼がつい先日(2013年6月9日)胆嚢癌で死んでいたこと。諸行無常であることよ。

たしかこれを買ったのは彼のミステリ、「共鳴」が結構面白かったので買い揃えたのだと思う。彼のSF「ゲーム・プレイヤー」もそこそこ面白かった記憶がある。それでもなぜこのデビュー作を読まなかったのだろうか。それが気になって日曜日を潰して一気に読んでみる。

スコットランドの小島に元ヒッピーの父と二人で暮らす16歳のフランクが主人公。彼は出生届も出されず、学校にも行かず、社会的には存在しない者として育てられた。幼い頃飼い犬にペニスを食いちぎられ、理想の男性になることを諦めざるをえなかった彼は、島に住む小動物を残虐になぶり殺して日常を過ごしていた。そこにある日、将来を嘱望された医学生だったが発狂して精神病院に収容されていた兄から電話がかかってくる。「病院を抜けだした。今から帰る」と。

ニューホラーと言えばこれ以上無いホラーの雰囲気で始まる物語なのだが、動物の虐殺やら、もっと幼い頃にフランクが手を染めた三件の殺人-偶然や彼が子供であることを巧みに利用した完全犯罪-などの記述がいかにもアングロサクソンっぽい気色悪さで、読み進むのが少々苦痛に近い。表紙には「結末は誰にも話さないでください」と書いてあって、一体どんな結末なのだろうという期待だけで読んで行った。

その結果、まあ確かに驚天動地と言えば言える結末に至り、彼のやってきた残虐行為にもそれなりに説明がつく仕掛けにはなっているのである。しかし正直言って肩透かし感は否めない。リアリティの面でもかなり問題がある。わざわざ買い揃えてこれだけ読んでいなかったのは、あまりといえばあまりなこの結末を予測したからだろうか。それとも私の脳みそが拒否反応を起こし、読んではいたが読まなかったことにしてしまったのか。

もはや誰も問題にもしない小説について何を言っても仕方がないとは思うが、通俗文学の愛好者としては、自分の時間の多大な部分を浪費して読んできた行為の無意味さを思い知らされたような体験だった。これこそこの「ニューホラー」作品の狙いだったのかもしれない。



2013年6月23日日曜日

ブログ再開

何年か前までブログっぽい雑文サイトを作っていたことがあるんだけど、ある時データクラッシュしてしまい、なんとなくバカバカしくなってやめてしまった。

ちょうどその頃色々あって、職場と自宅を往復するだけ、同居人は猫だけと言う生活になってしまい、書くこともないというのが実のところだったかもしれない。

だんだん歳を取り、毎日何をやっているのか記憶も定かで無いという事が多くなり、以前のブログもどきにも記憶管理の意味があったんだなと思うようになる。一応twitterやface bookのアカウントはあって、特に後者は友人や家族との接触には重宝しているのだが、やはり生活の記録というのとは違う。twitterなんぞ、全くその意義も理解できず放置したまま。

そういう訳で、記憶力低下や自発性低下が著明なここ最近、自分の状態を記録するのも悪くなかろうとまたブログを始めることにする。おそらく他人が読む価値など全くないものになるのは間違いない。自分のノートにでも手書きしろよと思われるだろうが、もしかしたら他人が読むかもしれないという緊張感は、文章をまとめる時、結構な刺激になるのも事実なので。

16歳になった我が家のお姫様、黒猫ノエルが天寿を全うするまで続けてみるつもり。こちらが先にアウトになるかもしれないが。